2020.09.28 オピニオン

『帝銀事件と日本の秘密戦』を語る

山田 朗さん(明治大学文学部教授)



帝銀事件とその捜査とは

 帝銀事件は、1948(昭和23)年1月26日に起きた銀行強盗殺人事件である。帝国銀行椎名町支店の行員など12名が毒殺され、現金・小切手が強奪された。その際、犯人は、窓口業務終了直後に一人で銀行に現れ、近所の具体的な場所を示して集団赤痢が発生したこと、実在の米軍将校の人名を出してGHQの消毒班がそこまで来ていること、事前に「予防薬」を飲んでもらうと言って、自分もそれを飲んで見せ、用意させた茶碗に手際良く「予防薬」をつぎ分け、行員たちに一斉に毒物を飲ませた。4人の生存者の証言から犯人の背格好・髪型・人相などは明らかになったが、物証が何一つなかった(物証は類似未遂事件で使われた名刺と本件で換金された小切手の裏書きの文字くらい)。

 事件当日、目白署に特別捜査本部が設置され、以後、警視庁の総力をあげた捜査が行われる。帝銀事件の捜査は、〔1〕特捜本部主力と〔2〕特捜本部名刺班、さらには特捜本部とは別建ての〔3〕秘密捜査班(刑事部長からの特命によって設置)の3つ部署で進められたが、〔1〕が警視庁捜査一課と所轄警察の専従捜査員数十名から成っているのに対し、〔2〕は十名程度、〔3〕は数名の規模であった。

 捜査の結果、同年8月に名刺班によって容疑者として画家・平沢貞通が逮捕された。平沢は、逮捕1ヶ月後に犯行を「自白」したものの、裁判では一貫して無実を訴え続けた。物証がほとんどなく、自白に頼った捜査と裁判の結果、1955年には最高裁で平沢の死刑が確定したが、多くの弁護士・学者・ジャーナリストが冤罪であるとして世論を喚起したこともあり、平沢の死刑は何度かの危機はあったものの執行はされなかった。しかし、釈放されることもなく、平沢死刑囚は1987年に95歳で獄死するに至った。

 

本書の特徴

 帝銀事件に関する著作としては、真犯人を推理するもの、冤罪事件としての平沢貞通の無実を実証しようとするもの、捜査へのGHQの介入を論じるもの、今までに数多くの著作が刊行されてきた。本書は、正直に言って、これらの問題点について、際立った「新説」を提起したものでも、大胆な「推理」を展開したものでもない。帝銀事件についてこれらのことを期待した読者をガッカリさせるものであろう。

 しかし、本書ならではの特徴というものがないわけではない。本書の最大の特徴は、帝銀事件の特別捜査本部で、毎日の捜査員の捜査報告を書き留めていた捜査一課係長・甲斐文助の『甲斐捜査手記』全12巻およそ80万字の内容を分析し、特捜本部がどこに焦点を当てて捜査をしていたのかを明らかにしたことである。

 1月26日の捜査開始から8月21日の平沢逮捕までに特捜本部において捜査員が報告したものを内容別に整理すると2020本になるが、そのうち最多が軍関係者に関するもので716本(35%)、その次が似寄り人物・投書などの情報に関するもので348本(17%)、その次が地取り・足取りに関するもので240本(12%)であった。これだけでも特捜本部の関心が軍関係者に向けられていたことがわかるが、とりわけ重要なのは、軍関係のどのような部隊・機関が捜査の対象となっていたのか、ということである。これまでも731部隊(関東軍防疫給水部)関係者の関与が指摘されることは多かったが、特捜本部が捜査対象としたのは実に32部隊・機関に及んでいたのである。

 

特捜本部が肉薄した日本軍の秘密戦部隊

 帝銀事件の捜査は、結果として言えば、日本陸軍の秘密戦の全貌を解き明かすものであったといえる。ここで言う「秘密戦」とは、化学戦(毒ガス戦)・生物戦(細菌戦)といった広義の秘密戦と狭義の秘密戦である謀略戦(暗殺・謀略)を含んだものである。捜査対象となった主な秘密戦部隊は以下の通りである。

化学戦部隊:陸軍習志野学校、第六陸軍技術研究所(六研)、陸軍糧秣廠、関東軍化学部(516部隊)、526部隊、陸軍第二造兵廠忠海製造所(大久野島)

生物戦部隊:関東軍防疫給水部(731部隊)、中支那防疫給水部(1644部隊)、関東軍軍馬防疫廠(100部隊)

謀略戦部隊:第九陸軍技術研究所(九研=登戸研究所)、陸軍中野学校、特務機関、新京特設憲兵隊(86部隊)、東京憲兵学校中野実験隊、特設憲兵隊

 これらの部隊は、毒ガス・毒物や細菌などによって人を殺害する手段を研究・開発していたもので、ほとんどの部隊がその研究過程で人体実験を行なったり、実戦部隊においては組織的な生物化学兵器の使用や毒殺を実施していたのである。特捜本部主力は、ほぼ青酸ガス・青酸化合物に焦点を絞り、さらに「毒殺経験者」がいるということに注目して捜査にあたったのであるが、それでもこれだけの部隊・機関が洗い出されたのである。

 日本陸軍という組織が実に多くの秘密戦関係部隊を有していたことが分かる。戦後、731部隊に関する最初の研究書である常石敬一氏の『消えた細菌戦部隊』と一般に広く731部隊の名前を知らせた森村誠一氏の『悪魔の飽食』が刊行されたのがともに1981年であることを考えると、1948年という時点で、日本陸軍の秘密戦部隊・機関のほぼ全貌を捜査当局が明らかにしていたことに驚かされる。これら多数の部隊・機関の存在は、日本陸軍が、生物化学兵器を含む秘密戦をいかに重視していたかということを明らかにすると同時に、陸軍という組織が末端に至るまで縦割りになっていて、それぞれの部隊・機関が必要に応じてバラバラに兵器開発を行っていたことも示している。

 

捜査の行き詰まりとその原因

 『甲斐捜査手記』の記述を内在的に分析すると、軍関係の捜査は、〔1〕キーパーソンが口をつぐんで情報(容疑者名)を出さなかったこと、あるいは、〔2〕犯行を犯しそうな人物が、年齢と人相(特に胡麻塩・短髪の髪型)に合致しなかったことで行き詰まったことがわかる。キーパーソンが口をつぐんだのは、731部隊や登戸研究所関係者などが、ちょうど帝銀事件の捜査の最中に、GHQとデータを米軍に独占させる代わりに戦犯免責をするという「ギブ・アンド・テイク」の取引をし、取引の結果、旧軍の秘密を捜査員にも話さないという約束を関係者がしたためである。こうした約束があるから話せない、と捜査員に語った731関係者もいたことが『甲斐捜査手記』に記されている。また、GHQの手先となって有末精三(元参謀本部情報部長・中将)などの旧軍の有力者が暗躍していたこともわかる。GHQと結びついているこれら旧軍関係者に睨まれれば、たちまち「戦犯」にされてしまう恐れもあるのだから、旧軍関係者は口を噤むしかなかったのだ。

 捜査末期の7月以降、具体的な容疑者名が出てこなくなるが、少なからざる旧軍関係者が捜査員に対して、謀略戦にかかわる特務機関員などは、年齢・人相を秘匿するために高度な変装術を修得していたと証言していることが『甲斐捜査手記』にも記録されている。しかしながら、捜査はそれに対応できていなかった。変装の可能性という障害を乗り越えられなかったことにより、軍関係の捜査は急速に行き詰まってしまったと言える。

 

戦後史の「分岐」を示したものとしての帝銀事件

 帝銀事件そのものの「政治性」が問われることは、GHQの捜査介入という次元で論じられることはあっても、社会的な事件の背景にある「政治性」という点では、帝銀事件の翌年1949年に起こった国鉄をめぐる3怪事件(下山・三鷹・松川事件)ほどは強調されていない。国鉄をめぐる3怪事件は、ドッジラインのもとでの「逆コース」の始まりと指摘されることが多い。しかし、「逆コース」の地殻変動は、すでに1948年の帝銀事件の捜査の過程において起こっていたのである。1948年前半といえば、A級戦犯裁判もBC級戦犯裁判も進行中であり、一方では捕虜虐待の容疑で死刑判決を受ける戦犯も出ている同じ時期に、他方では捕虜を虐殺したことが明白な人々が免責されるという全く正反対のことが行われていたのである。帝銀事件の捜査とその幕引きは、この占領政策のダブルスタンダードという戦後史の「分岐」を明らかに示したものであるといえよう。 

 

 

 

 


◆山田朗(やまだ あきら)さんのプロフィール

 

1956年大阪府生まれ。愛知教育大学卒、東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。博士(史学)。明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館長。専門は、日本近現代史・軍事史・天皇制論・歴史教育論。歴史教育者協議会委員長。主な著書に『大元帥・昭和天皇』(新日本出版社、1994年、ちくま学芸文庫、2020年)、『軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊―』(吉川弘文館、1997年)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(校倉書房、2002年)、『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』(吉川弘文館、2009年)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(高文研、2013年)、『近代日本軍事力の研究』(校倉書房、2015年)、『兵士たちの戦場―体験と記憶の歴史化―』(岩波書店、2015年)、『昭和天皇の戦争―「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと―』(岩波書店、2017年)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(新日本出版社、2017年)、『日本の戦争Ⅱ:暴走の本質』(新日本出版社、2018年)、『日本の戦争Ⅲ:天皇と戦争責任』(新日本出版社、2019年)『帝銀事件と日本の秘密戦』(新日本出版社、2020年)など。