日本人の「税」感覚と憲法
三木義一さん(弁護士・青山学院大学前学長)
*役人の税金ピンハネ構造と納税者の拒否感覚
2020年6月、自粛を余儀なくされていた事業者に対して持続化給付金が支給されることになったが、その支給事業を経産省自身で行わずに、769億円で一般社団法人サービスデザイン協議会に依託し、それをその協議会がさらに749億円で電通に丸投げしていたことが判明した。この協議会は経済産業省から4年間で14件1567億円もの事業を受託しており、官民一体で税金ピンハネが行われていたことになる。
これでは、一般国民が主権者として税金問題に真摯に向き合う気力がなくなるが、日本国憲法では国民が主権者である。税の拠出と支出のあり方については主権者としての意見を持たねばならないはずであるのに、そうなれていない原因をこの機会に考えて欲しい。
*一体だった納税の義務と兵役の義務
日本国憲法には不思議な規定がある。私たち国民が主権者になったのに、日本国憲法はなぜか私たちに「納税の義務」を課している。これは正しいのだろうか?なぜ、こんなことになったのだろうか。
そこに入る前に、明治憲法でどのように規定されていたのかも見ておこう。
明治憲法起草の第一段階で、井上毅が1887年4月から5月にかけて甲案・乙案を起草したが、いずれの案にも「凡ソ日本国民ハ兵役ニ就キ及其ノ財産ニ比例シテ租税ヲ納ムルノ義務ヲ負フ」と、納税の義務を兵役の義務と同じ条文に規定していた。同時期に井上に影響を与えたといわれるヘルマン・ロェスレルも自ら草案を起草しているが、その第60条の前段において「兵役及納税ノ義務ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」と、兵役義務と納税義務とを一括して規定した上で、「租税ノ性質ヲ有セス報償ノ性質ヲ有スル行政上ノ手数料及賦課ヲ徴収スルニハ法律ヲ要セス」と説明としていた。
これらを参考に8月、伊藤博文は、井上、伊東巳代治、金子堅太郎の助けを借りて憲法草案を起草した(夏島草案)。そこでは、臣民の権利義務が第四章に置かれ「臣民一般ノ権利義務」と題し、兵役の義務と納税の義務とをそれぞれ独立させた条文とし、納税については「第52条 日本臣民タル者ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」とロェスレル案を採用していた。この「夏島草案」を基にさらに検討が重ねられ、翌年に「2月草案」では、「第21条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス」となり、その後、章の表題も「臣民権利義務」と改め4月に上奏された。
枢密院の第一読会(1888年6月18日)では、一部にこの規定は不要という意見もあったが、圧倒的多数で「納税の義務」規定が可決された。
このように明治憲法では、納税の義務は兵役の義務と一体的なものとして議論され、臣民の国家に対する義務の一つとして規定された。「血税」というのが今日一般に誤解されているような「血と汗と涙の結晶を払うもの」ではなく、「金の代わりに血で払う税」=兵役のことを意味していたが、兵役と納税が一体であれば、なるほどと言わざるを得なくなる。
*天皇主権を維持した松本試案と納税の義務
戦後、政府が憲法改正のために設置した憲法問題調査委員会(松本委員会)では、当初「兵役の義務」と「納税の義務」をセットで考え、第1案として、「兵役の義務」と「納税の義務」規定を削除し、第二章の表題を単に「臣民」とする案、第2案として「兵役の義務」を「国家を防衛する義務」又は「国の為に役務に服する義務」と修正し「納税の義務」を存置する案が出された 。
翌1946年2月2日、松本委員会は、これまでの検討をまとめて作成した甲案(「『兵役ノ義務』トアルヲ『役務ニ服スル義務』ト改ムルコト」)と、乙案(「兵役の義務」を削除)を検討したが、同委員会ではいずれの案においても「納税の義務」規定を従来どおり存置していた。同委員会の委員らの改正案においても「納税の義務」規定は「現状通り」と存置されている。この委員会は明治憲法同様、主権が天皇にあることが前提となっていた。
また、当時、各政党や民間からも憲法改正案が発表されたが、その多くは「納税の義務」規定を明治憲法のまま踏襲していたことも注目すべきだろう。人の意識はそう急には変われない、ということであるし、国民が主権者になるという意識を国民自身が十分に持っていなかったことを意味していよう。
この委員会の案は、その年の2月1日に毎日新聞にスクープされ、そのあまりの保守的性格が批判され、日の目を見ないことになったのである。
*マッカーサー草案と納税の義務
毎日新聞によるスクープの後、2月3日からGHQ民政局において、マッカーサー草案起草作業が始まった。人権に関する委員会では、ワイマール憲法に由来する社会権規定を広範囲にわたり条文化したが、「納税の義務」に相当する規定は採用しなかった。結局、マッカーサー草案中の人権を扱う章の規定で「義務」の文言が用いられていたのは、第11条「此ノ憲法ニ依リ宣言セラルル自由、権利及機会ハ…共同ノ福祉ノ為ニ行使スル義務ヲ有ス」と第29条「財産ヲ所有スル者ハ義務ヲ負フ…」 の2か条だけであった。その後、日本国政府の手で「憲法改正草案要綱」が発表され、その中に「納税の義務」規定はなかった。そこで、大蔵省は慌てたものと思われ、法制局との打ち合わせで「国民ノ権利及義務」に「納税ノ義務ニ関スル規定ヲ設ケタシ」という要望を提出していた。
大蔵省自体が納税を「義務」として強制することを望んでいたことになるが、これが戦後の税務行政の改革を大きく遅らせた原因の一つでもあろう。
大蔵省の要望は受け入れられることなく、政府は草案を国会に提出するが、法制局では、枢密院及び帝国議会の審議にそなえ「想定問答」を作成し、「納税の義務の規定を何故落したか」という問いに対しては、「第80条〔あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。〕等からも推知し得られるので、強いて憲法中に一条を設ける必要はないのみならず納税義務は、国の財政にして潤沢ならば、これを撤廃することがむしろ理想であり、基本的義務として固定する必要がないのである。また、若し、規定を設ける必要があれば、法律中に設ければ足りるのである」 という回答を用意していたのである。
*帝国議会の審議
このように憲法草案には納税の義務はなかった。主権者である国民が誰に義務を負うのか、ということになる。もし税が必要なら、自らの代表で構成される議会で税法を制定し、その法律を国民が遵守すれば良いだけの話である。ところが、大蔵省の根回しを受けて、議員達が、財産権を国民に保障しているのに、納税の義務の規定を欠いたら誰も税金を払わなくなるではないか、ということを恐れた。各政党からの様々な修正意見が出たため、小委員会(芦田小委員会)が設置され、そこに6党から修正案がだされ、そのうち4党の修正案に「納税の義務」規定が挿入されていたのである。自由党は「日本国民は法律の定める処により納税の義務を有する」、社会党は「国民は法律の定めるところにより納税及び公共の負担役務に服するの義務を負ふ」、日本進歩党は「国民は総へて法律の定める処に従ひ納税の義務を有する」、無所属倶楽部は「日本国民は法律の定める処により、納税の義務を有する」という修正案であるが、革新政党までも基本的には明治憲法を踏襲していたのである。
その後、8月21日、衆議院特別委員会において芦田委員長は、「納税の義務」規定について、「此の条項は改正案の他の条文と対照して既に明白なことであるから之を明記する必要はないとの論」もあったが、本委員会はこの規定が「国の基本的法制として最小限度に必要なり」と認め、新たに挿入したと総括説明を行い、現行憲法の規定となっていったのである。
*古い発想の議員・政党と新しい憲法
以上みてきたように、納税義務規定の成立過程は紆余曲折があり、政府原案には規定がなかったにもかかわらず、議会での与野党の要望が強かったために、政府原案を通すための妥協策として最終的に盛り込まれた、といえそうである。このことは何を意味しているのか、再度考えてみよう。
まず、当時の議員の大部分が、明治憲法との連続で、新憲法を考えていたことがうかがえる。当時の議論を見る限り、主権が国民に移動することは念頭には置かれていないし、その意味を理解していなかったようである。こうした発想からは、憲法が国家のために国民に義務を明記することはきわめて自然で、かえって義務規定がないと国民が自由に納税を拒否したりできるのではないかと恐れたといえよう。この発想からは、労働についても権利を規定するなら義務も強調すべきで、労働もせずに安易に生活保護に頼ってもらっては困る、という発想になる。教育についても、受ける権利を保障するなら子女を受けさせる義務を国家に対して負うべきだ、ということになる。
税については、そもそも「納税の権利」あるいは「納税者の権利」というものは、当時にはあり得なかった。それまでの租税は、主権者と納税者が異なる主体であり、納税者は一方的に奪われるだけだったからである。この発想の元では、納税については、義務規定を入れるか否かのみが検討されたのもきわめて自然であろう。
つまり、一連の義務規定は、明治憲法的発想の産物で、それが前提を異にする日本国憲法の中に紛れ込んでしまったのである。いうまでもなく、日本国憲法の下では、主権者が国民となり、その国民が納税者でもある。主権者である国民が、自己の財産をいくら税として拠出して、日本国の財源を補填するかは、自己の所有権の行使として、本来自由に決定できることである。もちろん、税を拠出しない決断もできるが、その代わり国家財源が枯渇し、所得再分配がなされない社会となり、自助努力で生きていくしかない社会となる。主権者である国民は、どのような社会を形成すべきかの責任を負っているとはいえよう。こうしてみると、国家が国民に義務を課しているかのような義務規定は、憲法上ほとんど議論するに値しない規定ということになる。従って、戦後の憲法学は、この義務規定をほとんど無視してきた。それが、人権を実質化するためには、その財源が必要である、という大事な視点を憲法学から欠落させた。
*お上が決める税制
「納税の義務」が復活されたことにより、大蔵省は従来の税務行政をそのまま踏襲することができた。国民に義務として課税し、納税しない国民を取り締まる、という行政システムを維持することができたのである。
その結果、税制は自分たちが決めるものではなく、「お上」が決めるもの、納税は義務としてお上に奪われるもの、という戦後税制の不幸なスタートがきられ、それから70年経った今なお国民は主権者として税制を語ることはできないのである。
**ここに書いたこととほぼ同様の指摘を『日本の納税者』(岩波新書)で示したことがある。また、youtubeでも下記のようなものを公開した。ご覧いただければ幸いである。
https://www.youtube.com/watch?v=VkQ7ozrsPnQ
◆三木義一(みき よしかず)さんのプロフィール
生年月日:1950年5月3日
学 位:博士(法学・一橋大学)1993年3月10日
学歴・職歴
1973年3月 中央大学 法学部法律学科卒業
1975年3月 一橋大学大学院 法学研究科公法専攻修士課程修了 修士〔法学〕
1975年11月 一橋大学大学院 法学研究科公法専攻博士課程退学
1975年12月 日本大学法学部助手
1980年4月 静岡大学 人文学部法学科専任講師
1980年10月 静岡大学 人文学部法学科助教授
1993年4月 静岡大学 人文学部法学科教授
1994年4月 立命館大学 法学部教授
2004年4月 立命館大学大学院 法務研究科教授
2010年4月 青山学院大学 法学部教授
2014年4月 青山学院大学 法学部部長・大学院 法学研究科長
2015年12月 同大学学長
2019年12月 学長退任
2020年4月 定年退職
現在、弁護士
公的機関における活動
1998年4月~1998年10月 ドイツ・ミュンスター財政裁判所 客員裁判官(Richter am Finanzgericht Münster)
1998年10月~1999年5月 土地政策審議会特別委員
2002年4月~2014年8月 滋賀県土地調査委員会委員・議長
2010年2月~2013年1月 政府税制調査会専門家委員会委員
(納税環境整備小委員会座長)
主な研究業績
著書(単著)
『日本の税金(第3版)』(岩波書店・2018年)
『日本の納税者』(岩波書店・2015年)
『相続・贈与と税』(信山社・2005年)
『受益者負担制度の法的研究』(信山社・1995年)
『現代税法と人権』(勁草書房・1992年)など。その他、実務書、監修書等も多数ある。