第40回<明確性の理論>
高速道路には速度制限があります。時速100㎞を越えてはいけないというように明確にスピードの上限が決まっています。もし、このような制限でなくて「スピードを出しすぎてはいけない」というような規制であったとしたらどうでしょうか。ドライバーは安心して運転できないでしょう。人によってスピードの感覚が違いますから、「出し過ぎてはいけない」と言われてもいったいどのくらいのスピードなのかわからないからです、
どのくらいのスピードを出してはいけないのかが明確にわからないと、私たちは捕まってはいけないと思って、スピードを下げます。本当は100㎞までは許されていたとしても、もっと低いスピードで走ってしまうかもしれません。つまり、萎縮して本来許されている行動をとれない危険性があるのです。私たちの行動を規制する法律は明確でないと私たちは自由に行動できません。特にスピード違反のように犯罪として刑罰を科す際には、予めその犯罪成立要件を明確にしておかなければなりません(罪刑法定主義)。
そして基準が明確でないと取り締まる側の都合でその都度、「これはスピードの出し過ぎだ」と勝手に決めつけて取り締まることができます。取締りが不明確な基準で行われることは、権力の濫用を招いてしまいます。
そこで憲法は刑事手続きの適正を保障して、こうした刑罰を科す際の要件、つまり犯罪の成立要件を明確に規定することを要求しました。憲法31条に明確に書かれているわけではありませんが、この条文の解釈によって、刑罰を科す際の要件は明確でなければならないと解されています。
国民がいつ捕まるかびくびくしている社会は健全ではありません。自分の行動が犯罪にあたるかどうか明確にわかることは自由で民主的な社会であるための最低限の条件です。判例は、ある刑罰法規があいまい不明確ゆえに憲法31条に違反するかどうかは「通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによってこれを決定すべきである。」としています(徳島市公安条例事件判決)。
そしてたとえ罰則が伴っていなくても表現の自由を制限する際には、その規制基準が明確でなければなりません。刑事罰がなくても懲戒処分がなされる危険性があれば、それを怖れて自己抑制してしまい、本来許されている表現が結果的には規制されてしまうからです。表現の自由という人権は人間の精神活動の領域に関する人権の中でもとりわけ重要であり、最も権力によって傷つけられやすいため、その制限は慎重でなければなりません。権力者は自分が気に入らない言論活動を、もっともらしい口実をつけて規制しがちです。
さて、先月(編集部注:2007年5月)国民投票法が成立しました。憲法改正の手続を定める法律でとても重要なものです。そこには国民投票運動という表現行為を規制する条項がいくつか含まれてしまいました。公務員および教育者がその地位を利用して行う運動の禁止や、組織により多数の人に投票の勧誘をして買収する行為を犯罪とすることなどが盛り込まれています。しかし、どのような行為がここで禁止されている地位利用行為などにあたるのかはっきりしません。たとえば、公立小学校の先生が、定期的に発行している学級通信に「近々国民投票が行われますが、私は今の憲法が大切だと思います。」と書いたら、それは禁止されている地位利用による運動となってしまうのでしょうか。公務員ですから今の憲法を尊重することはむしろ義務です(99条)。地位利用ということの不明確性とともにこうした義務との関わりも十分に議論されたとは思えません。
このように不明確ではないかとの批判が出たため、この法案の審議をした参議院においては附帯決議で「禁止される行為と許容される行為を明確化するなどその基準と表現を検討すること」、「罰則について構成要件の明確化を図るなどの観点から検討を加え」ることを求めています。これはこの法律の文言自体が不明確なことを自ら認めているようなものです。
こうしたあいまいな文言による規制で国民投票運動という国民にとって極めて重要な表現活動が規制されてはなりません。もっと十分な時間をかけて法律の審理をするべきだったと思います。私たちはこの法律が適用されるときに、過度に規制されないか、表現の自由が不当に侵害されないかしっかりと監視していかなければなりません。
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