経済産業省職員事件―トランスジェンダー女性職員の職場の処遇に関する最高裁判決―

立石結夏さん(弁護士)



第1 はじめに

 本件は、経済産業省の職員である性同一性障害者・トランスジェンダーの女性(出生時の生物学的な性別は男性であるが、自認する性別は女性である。以下、「原告」という。)に対し、同省が定めた職場の処遇の違法性が争われた事件である。
 令和5年7月11日、本件の最高裁判決が言い渡され、経産省の原告に対する女性用トイレの使用制限が違法であると判断した。本件は、トランスジェンダー女性の職場の処遇に関し最高裁が判断を示した初めての事件であり、社会への影響が大きい。それだけでなく、本最高裁判決が示す理念は、セクシュアルマイノリティやその他マイノリティが働く職場全体に考え方の道筋を示すものとなっている。

第2 事案の概要

 原告は幼少期からの性別違和に悩み、性同一性障害の診断を受けた。ホルモン療法等を受けながらプライベートな場所では女性として生活し、経産省では男性として働いていた。原告には治癒の難しい疾患があり、性別適合手術をすることができないため、戸籍上の性別を女性に変更することはできない(性同一性障害者特例法3条第1項4号・5号)。
 入省から相当の期間が経過した平成21年、原告は上司に自身の性同一性障害を打ち明け、女性職員として勤務したい旨の希望を出した。経産省の人事を統括する秘書課との話し合いを経て、平成22年7月、原告は女性職員として働くことができるようになったが、その際経産省は原告に、女性用休養室、女性用トイレの使用、乳がん検診の受診等を許可するが、女性用トイレについては当面の間、所属部署から2階以上離れた階のトイレを使用するよう条件を付した(以下、「トイレ制限」という)。
 原告に協力的だった秘書課担当者が異動によって交代した。それ以降、秘書課担当者や原告の上司らは、原告に性別適合手術を行うよう繰り返し求め、手術をしないなら異動ができない、異動先で女性用トイレを使わせない、異動先でカミングアウト(自身が性同一性障害であり、生物学的性別は男性であることを告白すること)しなければならない等と言うようになった(以下、「本件異動条件」という。)。その中で、上司らは「性同一性障害であっても、女性用トイレを使用するのは(他の女性職員に対する)セクハラになりうる」「私(男性の幹部職員)が女装をして女性用トイレを使用すれば逮捕される」「手術をしないんだったら、男に戻ってはどうか」等と発言した。
 このような状況下で原告は抑うつ状態となり、約1年2ヶ月間の病気休職を余儀なくされた。その後原告は復職したが、原告は本件異動条件のために異動の希望を出すことができず、国家公務員でありながら15年以上人事異動ができない状態となっている。
 平成25年12月、原告は本件異動条件やトイレ制限を撤回すること等を求め、人事院に対して行政措置要求※を行ったが、原告の要求をすべて認めない旨を判定した。平成27年11月、原告はかかる人事院判定の取消請求訴訟と、職場の処遇と上司らの発言についての慰謝料等の賠償を求める国家賠償請求訴訟を同時に提訴した。

第3 裁判所の判断

 一審判決(東京地判令和元・12・12労判1223号52頁)は、(1)本件トイレ制限、(2)「なかなか手術を受けないんだったら、男に戻ってはどうか」という上司の発言の違法性を認め、原告と被告の双方が控訴した。
 高裁判決(東京高判令和3・5・27労判1254号5頁)は、原告の控訴を全部棄却して(1)本件トイレ制限の違法性を認めず、(2)についてのみ違法性を認めた。高裁判決は、「経産省としては、他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益も併せて考慮し、一審原告を含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていることも否定し難い」等と判示した。
 これに対して最高裁は、行政措置要求判定取消請求訴訟の本件トイレ制限にかかる論点のみを受理し、高裁判決を破棄し、一審判決を維持した。
 すなわち法廷意見は、本件トイレ制限を妥当とした人事院判定を違法と判断したのであるが、その理由は次のとおりである。
 (1)トイレ制限は、原告を含む職員の服務環境の適正を確保する見地からの調整を図ろうとしたものであるが、(2)原告はトイレ制限により、日常的に相応の不利益を受けている、(3)一方、原告は、健康上の理由から性別適合手術を受けていないものの、女性ホルモンの投与を受け、性衝動に基づく性暴力の可能性は低い、(4)本件説明会から本件判定までの約4年10か月の間、経産省が特段の配慮をすべき他の職員が存在するか否か調査を行ったり、処遇の見直しが検討されたことがうかがわれない。(1)(2)(3)(4)等から、遅くとも本件判定時においては、原告が女性用トイレを自由に使用してもトラブルが生ずることは想定し難く、特段の配慮をすべき他の職員の存在が確認されてもいなかったのであり、本件における具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮を過度に重視し、原告の不利益を不当に軽視するものであって、著しく妥当性を欠いたものといわざるを得ない。
 法廷意見の要旨は以上であるが、裁判官5名全員が、経産省による処遇を厳しく糾弾する内容の補足意見を付した。共通の考え方としては、控訴審判決が、具体的な根拠となる事情や理由もなしに、他の女性職員がトランスジェンダー女性とトイレを共有することを不安に思うと認定し、トイレ制限を正当化したこと、そして、経産省が漫然とトイレ制限を継続したことに対する批判である。

第4 本判決の意義

 本件は、トランスジェンダー女性という、人口の1%にもみたないごく少数の者が原告となった事件であり、特殊な事件であると思われるかもしれない。
 しかし、筆者はそうは考えていない。なぜなら、トランスジェンダー女性への差別は、この社会の男女差別・ジェンダー不平等の吹きだまりだからである。
 職場での女性へのハラスメントや雇用条件の不平等は、2023年現在、かつてよりは改善されているといえるが、一部トランスジェンダー女性に限ってはそうではない。本件で、上司たちが原告に対し、執拗に性別適合手術(男性としての内性器及び外性器を切除し、女性の外性器に似た外観を外科手術で作りだすもの。性同一性障害者特例法第3条1項4号・5号)をするよう迫っていたが、これは、まさに「性のあり方の強制」そのものである。むしろ、トランスジェンダー女性たちは、女性差別をより凝縮した形で背負わされている。
 令和5年6月16日、LGBT理解増進法が成立した。その法案をめぐる議論の中で、トランスジェンダー女性と、トランスジェンダー女性を装って女性用トイレに侵入する者を結びつけるような議論が展開され、当事者への悪質なデマや偏見が拡散された。法廷意見ならびに最高裁裁判官全員が書いた補足意見は、わかりやすい言葉でこのようなデマや悪質を払拭し、議論を中庸に戻すようもとめる力強いメッセージとなった。

※ 国家公務員が人事院に対し、自らの勤務条件に関して適当な行政上の措置を求めることができる制度。人事院は、調査を行った上で一定の措置を必要と認める場合には、自らの権限に属する事項については実行し、その他の事項については関係機関にその実行を求める。国家公務員法86条乃至88条。


◆立石結夏(たていし ゆか)さんのプロフィール
早稲田大学法学部卒業、琉球大学大学院法務研究科修了。2011年弁護士登録(第一東京弁護士会)。
第一東京弁護士会司法研究委員会LGBT部会部会長、第一東京弁護士会性の多様性促進PT座長、NPO法人レインボープライド監事。企業・金融法務、ベンチャー・スタートアップ支援を主要な業務とする。共著として、『セクシュアル・マイノリティQ&A』(2016年、弘文堂)、『詳解LGBT企業法務』(2021年、青林書院)ほか。論文・論説として、「セクシュアルマイノリティと暴力」法学セミナー2017年10月号、「『女性らしさ』を争点とするべきか―トランスジェンダーの『パス度』を法律論から考える」法学セミナー2021年5月号(石橋=立石)、「経済産業省事件 トランスジェンダー女性の職場での処遇差別」法と民主主義2023年5月号、Web日本評論「ルッキズムと法」シリーズ等。ライフワークとして、多様な性と生き方・働き方に関連する講演、講義、学会発表及び執筆多数。