沖縄と憲法

渡部 容子
はじめに

「軍隊は人を殺すためのものであり、決して住民を守らないんです。」
 この冬、2度目の沖縄を訪れた。3日間の現地学習の中で、読谷村役場の方がこぶしを強く握りながら言っていたこの言葉が最も私の心を揺さぶった。この学習を経て、日本国憲法の非暴力平和主義の正当性をつかんだ。以下、私にそう考えさせた沖縄での学びを記したい。

1日目−ひめゆりから見える現在

 1日目、ひめゆり学徒隊の生存者の方の話を聞いた。
 4、5歳の頃から戦争があり、そのなかで兵隊作りの教育が行われていた。当時、"日本男性"の鑑は、天皇・国のために死ねる人であり、"日本女性"の鑑はそういう日本男児を生み育て、自分の子どもに死んでこいと言える人であったという。"お国のために"と死ぬ教育が徹底してなされていたため、戦場に行けない女性は自分が女性であることを悔やんだそうだ。だから彼女も、看護婦の手伝いを言われたときお国のために働けると喜んだという。しかし、彼女たちはひめゆり学徒隊の仕事内容や戦場の様子、戦況について誤った知識を持っていた。「看護婦の手伝いというのだから病院内で看護をするのだと思っていた。日本はアメリカに勝ち続けているのだから爆弾が落ちてくるとは夢にも思わなかった」と回想するように、必要な"情報"は彼女たちにもたらされていなかった。この事が少女たちの死者を増やした大きな要因になったことは後述したい。実際の様子は極めて悲惨なものであったという。ガマの中で彼女たちは治療らしい治療をすることが出来なかった。医療器具はほとんどなく、負傷兵に与えられる食事も日に一度ピンポン球一つくらいのご飯のみだった。仕事といえば、兵士の蛆虫を取ってあげることくらいだったという。彼女は、麻酔なしで行う手術の際の、兵士の泣き叫ぶ声が忘れられないと言っていた。淡々と語られ、「戦場は人間が人間らしさを失っていくところ。そうなったら地獄」という彼女の言葉が心に残る。
 前述したように、誤った情報・教えが伝えられていた。彼女が一番強調していたのは、日本は勝っている・必ず勝つという教えと、捕虜になることは日本人として最大の恥であり、捕虜となったら辱めを受けるという教えであった。その教育により、どんなに戦場が悲惨でもいつか絶対勝つと思い込み、命を投げ出した人が多くいた。彼女自身も、戦況が悪化してひめゆり学徒隊に解散命令が出されたとき、とても驚いたという。解散命令が出された後、今までお国のために死ぬことが最大の名誉と指導していた先生が、泣きながら「一人でも多く生き残れ」と自分たちに話したとき「何をいうか」と言って彼女たちは先生に詰め寄ったという。そして、次の日ガマが米軍に囲まれたとき、捕虜となることはあり得ないとして、ガス弾を撒いて多くの少女が自決した。生き残ったのは彼女を含め5人だったそうだ。彼女は米軍の病院で目を覚まし治療を受ける。彼女は「こうして奇跡的に生き残った人がいるからこの話を今に伝えられる」という。私たちが現在知りうる以上の地獄図が実際は存在したのだと思った。「お国のために死ぬ」「生きて辱めを受けるなかれ」という教育がいかに多くの人の命を奪ったか実感した。

 戦後ひめゆりの生存者の方々は、戦争の話になるのが嫌でお互い会話を交わすことはなかったという。しかしそんな彼女たちを変えたのは、米軍と自衛隊の合同演習だったという。その様子を見て「自分たちが語らないとまた同じことをする」と強い危機感を抱き、戦争体験を語り始めたそうだ。彼女は「日本は戦後60年、戦争で誰一人殺してないし、死んでない。いま起きている動きが、平和を守るために変えようとしているのか、戦争をやりやすくしているために変えようとしているのかきちんと見定めなくては」と言っていた。彼女は「有事法制と国家総動員法はとてもよく似ている。また戦前に来たのか。戦争は突然起こるものじゃない。徐々に徐々に準備されていく」と話を締めくくった。国家政策として行われた教育の恐ろしさと、戦前と現在の連続性について考えさせられた。

2日目−平和に生きるということ

 2日目は午前中に、沖縄で基地問題に取り組む新垣勉弁護士の話を聞き、騒音訴訟のテーマの中で『基地と人権』について学んだ。嘉手納や普天間などの米軍基地周辺における爆音について新垣弁護士は"五臓六腑が押しつぶされる・かき回されるという感じだ"という表現を使った。神奈川の厚木基地の騒音を聞いていただけに、それに毎日つき合わされている沖縄県民の苦しみを思った。基地周辺の住民は精神的・肉体的な被害を日々受けている。乳を飲まない赤ちゃんや、高血圧や頭痛、不眠症、耳鳴りなどの症状で長年苦しんでいる人、自律神経が壊された人、また墜落事故への恐怖におびえている人が数多く存在している。沖縄戦の生存者の中には、爆音のたびに、飛び立つ飛行機を見るたびに、戦争を思い出し「戦争はまだ終わっていない」と恐怖を感じ、トラウマにおびえるという。新嘉手納基地訴訟では5542名もの住民が声を上げたがその意味は大きい。新垣弁護士の「基地あるがゆえの騒音」は、この問題の本質をついている。

 午後には、琉球大学法科大学院を訪問した。憲法学の高良鉄美先生が話し始め「平和的生存権」という演題が出現したとき胸にぐっと来た。沖縄県民の平和的生存権が侵害されている実態を人間の五感から具体的に論証し、その中で憲法3大原則にせまった。
 沖縄戦は政府の行為による「戦争の惨禍」そのものだった。戦後も占領は継続し、米軍の戦争行為によって「記憶」が60年間繰り返し再現させられてきた。戦後生まれた県民も生活の中で具体的・現実的恐怖を体験させられている。例えば、武器を携帯して住民の生活区域内を練り歩く軍、昼夜を問わず発着を繰り返している戦闘機やヘリの光景・音は、恐怖の記憶を呼び戻す。また軍用機関連・戦闘訓練の事故は命を奪い、燃え上がる炎や黒煙は恐怖を増大する。砲撃演習は射撃・爆裂音に関しては実習と同じであり、ガマの中で身をひそめ砲弾の地響きを聞いていた記憶につながる。毒ガス漏れや基地からの油脂燃料類の流出による水質汚濁・異臭もある。臭いは広範に拡大し、燃料の引火によって兵器・弾薬の爆発を誘発する恐れで住民を恐怖に導く。こうして五感を個別に通しても恐怖を感じるが、通常は視覚・聴覚・触覚などいくつかが結合して一度に襲ってくる。加えて人間の尊厳を直接的に侵す事件もある。住民が殺害・強姦される事件、米軍人による犯罪は恒常的に発生している。軍隊の存在が引き起こす事実である。こうした事件・事故の中で県民は、平穏な生活を疎外されない権利として平和的生存権の「実質的保障」を求めている。
 私は高良先生に平和的生存権の権利性について質問した。というのも平和的生存権は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と憲法前文に書かれているが、条文には明記されていない等の理由により具体的な権利ではないとする主張がよくなされるからである。先生の憲法論は目から鱗だった。憲法の存在意義、構造から現実的・具体的な解釈がなされ、憲法の本質は人権にあるということが明快であった。
 平和的生存権は当初認められていたが、その後最高裁で否定された。この権利は、憲法の基本原理たる平和主義と密接な関わりがあり基本的人権尊重思想の基礎にある「基底的権利」であることは判例も認めている。にもかかわらずその具体的権利性を否定する姿勢、憲法前文に唯一書かれている「権利」を"権利でない"とすることは法的というより政策的な主張である。憲法は権利といえないものをそう明記するほどいい加減な法典ではない。憲法前文・9条・13条および各人権条項、さらには統治機構の条項も含めた平和憲法構造の中に、平和的生存権が存在するという。憲法の大原則であり全条文に関る原理である平和主義を実践するために、政府の行為による恐怖と欠乏から免れるために、「実質的平和的生存権」が不可欠である。
 沖縄からは日本が見え、憲法もみえると感じた。平和的生存権の実質化について実務家になる前に研究したいと心に決めた。


3日目−軍隊とは

 3日目は読谷村役場を訪れ、元読谷村村長の山内徳信さんの話を聞いた。
 読谷村の役場は米軍基地の中にある。
 沖縄戦では、3700名余の読谷村民が命を失い、村土を奪われた。敗戦後も1割程度の村土しか返還されず、くわえて米軍による人権侵害に苦しみ続けてきた。現在もなお村土の47%が基地であるが、村土返還のたたかいは30年間読谷村長を勤めた山内さんを先頭に、"基地の中に文化の楔を打ち込む"という街づくり闘争として展開された。基地の中に読谷村の役場・文化センター・公園などを建設したのはその一環であり、ほかにも奇想天外な発想で憲法を実践する村づくりに取り組み続けている。役場の入り口には「嗚呼!村民の夢は実現した 読谷村の自治の殿堂として 米軍基地・読谷村飛行場の真中に 誇らしく自信を持って建っている … アメリカ軍にも大和政府にも読谷村の主人公は読谷村民だ、と訴え続け、闘い続けた村民の勝利だ…」という碑があり、庭には他にも憲法9条の碑、青年会や老人会、子ども会などが書いた不戦宣言の碑などが建つ。村民の平和に対する思いの深さ・切実さを強く感じた。

 その後、戦跡を回りながら読谷村役場の方の話を伺った。読谷村は石灰岩中にできた洞窟(ガマ)が多く存在し、そこが沖縄戦においては防空壕の役割を担っていた。住民の命を守ったガマだが、悲劇の場所となった所もあった。1945年4月1日の米軍上陸後、爆弾の炸裂音が響くなか、暗いガマの中で人々は極限まで追いつめられ、幾つかのガマで「集団自決」が起きたのである。そのうちの一つであるチビチリガマに私は訪れた。ここでは避難者140人中、83人が非業の最期を遂げた。しかし、すぐ近くのシムクガマでは一人の死者も出さなかった。この違いは何なのか、という話がとても印象的だった。以下、私が聞いた話を読谷村が発行している『読谷村史』を参考にしながら記したい。
 チビチリガマは米軍上陸当日、米軍に発見された。生か死かと騒然とする中、1人の男が布団や毛布などを山積みにして火を付けた。その男は、以前中国戦線にいたため日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んだという。男性は耳をそがれ、女性は強姦されると言った。その後サイパン帰りの2人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。それを見た住民の間では「自決」の賛否について、激しく対立し口論が湧き起こった。2人の男は怒りに狂って火を付けたが4人の女性が反発し火を消し止めた。4人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだという。翌日、米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。その間にも幾つかの悲劇は起きていた。18歳の少女が「綺麗なままの体で死にたい」と自分を殺すよう母に懇願し、母の手にナイフを握らせ自分の首に押しやって死亡したり、軍の看護婦が親戚に青酸カリを注射して「自決」した人々もいた。横たわる死体や飛び散る血、そこへ再び入ってきた米兵、ガマの中の混乱は極限に達していた。そしてついに毛布などに火がつけられた。もうそれを止めることはできず、奥にいた人たちは「自決」していった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。犠牲者の約6割が18才以下の子どもであったという。
 一方、同じ日にすぐ近くのシムクガマでは1人の死者も出さなかった。チビチリガマを米軍が取り囲んだ4月1日、米軍はシムクガマにも来た。米兵が洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥った。その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ住民たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、約1000人の避難民の命が助かったという。皇民化教育を受けていなかった男たちと、海外で日本軍が行った蛮行を経験、もしくは見ていた兵士、それが2つのガマを決定的に分けた。私にとってこの事実が最も衝撃的だった。
 「集団自決」は戦争犠牲の中でひときわ悲劇的である。明治以降、富国強兵の道をまっしぐらに歩んできた日本は、天皇を神格化し、国民には自らの生命を喜んで天皇に捧げるという皇民化教育を徹底した。沖縄は日本軍が「沖縄は民度が低く、殉国思想もなく信用できない」との偏見で、その教育が一層厳格だった。だが、軍部はその効果に疑問を持ったのか「軍官民共生共死の一体化」方針を打ち出した。これは「軍官民」(軍人、公務員、民間人)すなわち沖縄にいる全ての人は、日本軍と共に生きるか死ぬかのどちらかの道しかないということであった。追い詰められた日本軍が選択したのは、住民も一緒に「共生」していく道ではなく「共死」であった。この政策こそが140人中83名が非業の死を遂げた原因であり、沖縄戦において「集団自決」が異常なほど多発した原因である。しかも、追い詰められた日本軍は、住民スパイ視、そして虐殺、食糧の略奪、避難壕からの住民追い出し、マラリア有病地への住民の強制移動をしただけでなく、住民が米軍の捕虜になった場合に日本軍の秘密が洩れるのを恐れて、住民が肉親、友人、知人同士で殺しあうよう誘導し、命令した。チビチリガマで看護婦が周りの人に毒薬を注射して「自決」させたと上述したが、このとき使われた毒薬は軍部が病院を解散するときに看護婦に持たせたものである。病院は解散するとき医療器具セットのようなバッグを看護婦らに持たせたが、その中には人を治すための器具や薬は入っておらず、青酸カリが入った注射器など「自決」するための道具が入っていたという。まさに「共死」の強制である。「集団自決」はまさにそうした社会的状況と軍の方針の結果であり、軍事的な他殺である。「集団自決」が起きた現場のほとんどに日本軍がいたことを考えると、「自決」者たちは、進めば米軍、とどまれば日本軍という極限状態に置かれ、結局は自らの命を絶たざるを得なくなり、犠牲者を増やしたのである。この事こそが沖縄戦の最大の特徴である。沖縄戦は、極言すれば天皇制を守る戦いだといわれるように、一般住民の「集団自決」も「国体護持」作戦の犠牲といえる。
 チビチリガマを前に読谷村史を長年調査している役場の方の話を伺い、軍隊の本質が心に強く迫った。

 
おわりに

 「"普通の"国には軍隊がある」「米軍や自衛隊が日本を守っている」「なんだかんだいっても基地は必要だしアメリカに逆らえない」「いざというとき軍隊がないと怖い」そういう感覚をもっている人は多い。しかし、現実・事実をありのままに見たい。軍隊が国民や住民に何をしたか、何をしているか。軍隊は何のために存在しているのか、本当に国民を守るためなのか。武力行使とは一体どういうことなのか。その具体的な履歴から目を逸らしているにもかかわらず"現実的"だと標榜して、自衛隊容認論や集団的自衛権の行使を認める論陣を張る人は多い。私はその誤りを、沖縄での現地学習で確信した。

 沖縄戦は、戦争・軍隊が住民にどういう悲惨さをもたらすか、その極致を示した。日本国憲法を、特に第9条を切実に求めた県民の願いが本土復帰への原動力となったのはそうした体験を持つ故だと思う。ここで1995年の代理署名裁判で太田知事が法廷で証言した内容を紹介したい。沖縄戦時、彼は鉄血勤皇隊だった。「鉄の暴風」(立っていたら必ず当たるほど弾丸が飛んでくる状態のこと)の中でおそらく自分は死ぬだろう、万に一つも助からないだろう、だからもし自分が生き延びたら、この戦争が絶対間違っていることを言おうと思っていたという。運良く生き延びて、何が戦争の原因かを考えている時に新しい憲法に出会った。感動してすべて書き写したという。憲法には、戦争の反省が全部入っていたのである。国民が主権者であって、情報が国民に知らされ、政府が勝手な行動をしない、人の権利を、特に基本的な権利を簡単に侵害しない、ということが盛り込まれていた。沖縄戦の中で戦闘があった島となかった島がはっきり分かれたのは、軍がいたか、いなかったということだった。その反省をこの憲法は戦力不保持ということで入れている。知事は自分のそういう経験を通して「この憲法というものは沖縄の中で相当な意味を持っている。大変な反省の上に成り立った見事な憲法だ。これならばこの戦争は間違っていたということを自分が言うまでもなく、国民に大々的に知らされており、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重が浸透するだろう」という。新憲法は「沖縄県民に『生きる力』を与える何かがあった」と述べている。
 ところが、沖縄は未だに戦争に関わりを持たされている。沖縄の基地から戦闘機が飛び立ち、その先で人が殺されているのは事実である。かつて県民を殺したアメリカ軍はいまだ島内にとどまり戦争行為は日々身近で繰り返され、県民の人権侵害は後を絶たない。その抱える苦しみは想像を絶するものであると感じた。「武器なき王国」として発展してきた歴史を持つ沖縄、本土では失われた美しく心地よい自然や文化を持つ沖縄だけに、その異様さは際立っていた。

 現在、60年前の戦争とは比較にならないほど高性能の兵器や、幾度も地球を壊滅させる力を持つ核兵器が世界中に存在している。核戦争においては口実が何であれ、最も悲惨な被害者は一般国民であることは明白である。このような状況において、"武力で物事を解決する"という従来の発想は非現実的さを増しているように思う。暴力は連鎖し、どこかで断ち切る以外に解決策がないことは今の世界情勢を見ても明らかである。加えて、国民自らが戦争を拒否し、平和のうちに生存することを誠実に希求することはきわめて自然であり、自己の生存や安全を守る現実的・具体的な手段である。憲法は20世紀における筆舌に尽くしがたい国民的経験を経て、平和を人権として保障するに至ったのである。これこそが日本国憲法が平和憲法といわれる所以であるし、国際社会において高く評価されてきた要因である。非暴力平和主義は普遍的な価値を持つ、私は強くそう思う。
最後に平和主義を掲げる憲法前文の一部と、基本的人権の本質をついた97条を引用したい。
 『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、専制と服従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』
 『この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。』

以上