<憲法Voice>の(続き)

民主主義と自由主義の使い分けは、個人の尊厳に直結する自由主義を劣位に置けばそのままナチズムに辿り着くのであって、全体主義に対する反省が不十分な日本ではその危険はドイツの比ではありません。現在の日本で官僚機構の肥大化に対応できていないのは事実ですが、それを行政権の更なる肥大化で抑えるのではなく、通説通り議会主義の復権と司法権の強化によって対応するべきだと思います。

その意味では憲法審査部門を設置することには積極的に評価すべきなのかもしれませんが、まずこのあたりは法律レベルの話ではないかということはともかく、司法権の問題というのは、結局どんな制度をとったとしても、司法府の独立性を尊重しなければいけない以上、裁判所自身の判断による運用次第ということにせざるを得ないと思います。とすれば、どちらに転ぶかわからないような制度の重大な変更は可及的に避けるべきと思います。司法権の強化は、法律レベルで、裁判所の国家機関に対する調査権限を無制限に認めること、国民の納税者訴訟を認めること、公共機関に対する差し止め・将来給付訴訟を広く肯定することで十二分にはかれると同時に、その程度に留めるべきであると思います。

全般に自民党の議論は論外としても、民主党の議論もみるべきものはないと思います。地方分権などは政策として重要ですが、法律レベルの話でしょう。結局、憲法改正をなにがなんでも通そうという目くらましに過ぎない。しかも財源の不均衡の問題や、地方の右翼首長の暴走などをみると、分権を進めること自体にも疑問が残る。新しい人権は13条で柔軟に対応すべきで、新しい人権を規定すると、さらに新しい人権が認められにくくなりかねない。国民投票は主権委譲のような場合にするという場合の、主権の委譲先として国民ではない誰を想定しているのかという疑問は恐怖すら伴う。

9条の行方については、正直極めて悲観的になっています。しかし、いかに9条の実効性が大きく傷つけられているとしても、なお「将来、国民の意識の変化によって、仮死の状態にあった憲法規定が息を吹きかえすことはありうる」。憲法の変遷の部分ですが、芦部先生の「憲法」360頁(旧版)の最後を飾るこの部分に感動して司法試験受験を決めた者として、ここは譲る事のできない部分です。制限された自衛権によって自衛隊の活動を制限するという考え方にも一定の理由はあります。しかし日本軍はより厳しい規範ですら今現実に破っている。現実に破られる前であればともかく、既に破られているものを現実に合わせて緩やかにすれば守ってもらえるなど、既存の政治権力の配分を定式化したにすぎない「意味論的憲法」になってしまうでしょう。

9条の最大の敵は三菱重工などの武器商人だとおもいます。自衛隊の海外派兵の目的は国際貢献でない事はもちろん、純粋軍事的または外交的なものでもなく、武器商人のエキスポへの参加に他ならないでしょう。自衛隊の派兵が既成事実化したと評価できる事態をうけて、財界から武器禁輸の解除を求める動きが出てきたことは偶然ではない。9条の問題の解決のためには、まず自衛隊の動きに目を奪われる事なく、背後にある明治以降の武器商人の歴史に直面し、これをいかに封ずるかを考えざるを得ないと思います。

自衛隊の存在を直ちに否定できないとしても、なお9条の改正を許す事はできない。そのような事態が生じる可能性がなるべく低くなるような行動を、自分に無理のない範囲ではありますがとっていこうと思っています。特にすぐできることとして、かなり間接的ではありますが、旧三菱財閥の企業の製品は買わないようにしています。ちなみに三菱鉛筆は三菱グループに属していないそうですので、要注意です。財界から「逆二重の基準論」(経済的自由権の優位)の明文化という驚くべき要望が出ていることも警戒しておくべきでしょう。どのような企業が主張しているのか、明確にしておかねばなりません。

社会主義秩序が資本主義秩序に負けたという発想は私にはありません。まず社会主義と呼ばれていたものの実体は全体主義だったのであり、社会主義国家の崩壊は民主主義の勝利に過ぎなかった。それを社会主義と呼ぶのであれば、日本の生協や労働運動、社会民主党、共産党などの根幹にあるものは(かつては知らないが)社会主義ではないので、他の呼び方をすればよいと思います。名前はどうでも構いません。

それ以上に、西側諸国は社会主義諸国の崩壊を自己の勝利のごとく喧伝しましたが、実は社会主義諸国の崩壊は民衆一般の権力一般に対する勝利であったと考えるべきでしょう。すなわち、それまでは現代のように核武装に象徴される高機能なハイテク兵器を前に、民衆がこれに抵抗して革命を起こすなど不可能であると思われていたように思います。しかし社会主義諸国の崩壊はそれが革命に対して無力であったことが証明した。これは社会主義のみならず、資本主義諸国の権力者にも共通の脅威に他ならなかったでしょう。だからこそ資本主義諸国は新たな「文明の対立」という形での新たな「敵」を創出し、これに向けて国民の敵意を吐き出させようとした(アジアカップサッカーの時の中国と同じことです)。また、既存国家を想定した軍備が民衆に対して無力であったことから、仮想敵として国民を想定した軍備により近い方向への再編成として「テロとの戦い」を勧める必要が生じている。

このような状況にあって、かつての資本主義に対抗する「社会主義」に対応するイデオロギーは必要ないと思います。愛国主義、干渉主義に対する、個人主義、反戦・非戦主義、それで十分であって、それ以上である必要はない。自由主義、民主主義、福祉主義は、それ自体は当たり前の理想であって、理念レベルでは異論は少ないのですから、あまり積極的に理念として掲げる必要はない。しかし残念で奇妙なことですが、個人主義、平和主義は、少なくとも日本では決して当たり前ではない。むしろ生活の場面では否定的な意味合いで使われることが多いように思われます。

さらにおかしいのは、際限もなく利己的なネオコン支持者が個人主義、平和主義を批判して愛国主義、干渉主義を説いていることです。このあたりが攻め所ではありましょう。彼らは自己の利益と正義とを混同しており、自分に個人的に不利であることを悪と定義していると思います。すなわち彼らが正義を主張する時、それは結局自分の言う通りにしろというだけのことで、憲法も自分の言う通りにしたいというだけ、そこに国民を援用したとしても自己と意見を同じくする国民という意味ですから、ネオコン同士で利害の対立があるところをつけば仲間同士で自滅する場合もありうるのではないかと思います。

それから、他国の人権抑圧的な政権に対して人権擁護を理由として武力行使を正当化する、いわゆる「人道的介入」論をどう考えるのか。驚くべきは、ガンジーの非暴力非服従によるインド独立はもとより、東ドイツの崩壊がどのようになされたのかということを、既に誰もが忘れているということです。確かにそれはなさそうな理想でしたが、しかし現実に起きたことです。国民が大量流出すれば国家は自動崩壊する。難民が独裁国家を離れることを積極的に支援し、これを全面的に受け入れていれば、いつかその流れを止めることはできなくなる。問題なのは、実はそのような事態を、資本主義諸国の権力者が望んでいないということです。なぜなら海外での民衆革命の繰り返しは、自国国民のエンパワーメントとなり、自己の権力基盤を危機にさらすからです。ただこの分野では北朝鮮問題を巡り、右翼の主導があり、うまく利用すれば一定の力になるかもしれませんが、危険もあり、注意を要するところだと思います。

また国民の右傾化の背景には、インターネットの普及も考えておかねばならないと思います。インターネット上の言論と言うと、大衆の無責任言論がよく言われますが、匿名であるということは、かつてのニフティーサーブの「どうきんさん事件」のような、国家機関が地元住民や内部者を語って情報を操作するということが、かつてのパソコン通信の場合よりも容易にでき、ことにそれを暴くすべはもはやないということを意味します。私はイラクの人質事件被害者や、最近の拉致被害者家族に対する無責任な誹謗中傷が、一般国民でなく、国家機関(とは言わないまでも強い利害関係を持った私人としての公務員)によってなされた危険があると思っています。表現の自由を保障する以上、これに法的に対応することは考えるべきではないでしょう。そのような危険があるということを、国民全体が意識を持って、インターネットの、特に匿名性の高いサイトの情報を利用するべきであり、そのような認識を広めることが大切だと思います。