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浦部法穂の「憲法雑記帳」

 

第25回 あらためて「知る権利」を考える


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2018年6月22日

 私たちがいろいろなことを決めたり判断したりする際には、そのことに関連する情報を、なるべく多く、そして正確に知る必要がある。情報が得られなかったり、間違った情報や偏った情報しか得られなかった場合には、私たちは正しい決定や判断に至ることができない。そういう意味で、さまざまな情報を正確に「知る」ということは、私たちが生活していくうえで不可欠なことだといえる。そしてそれはまた、「国民主権」や「民主主義」というものを機能させるためにも不可欠なことである。政府が都合の悪い情報を隠したり、ウソの情報を意図的に流したり、というようなことがあれば、国民は、政府が何をしているのか、政治の世界で何が起こっているのか、本当のことを知らないまま、政府の意図する方向にずるずると引っ張り込まれていくことになる。これでは、「国民主権」も「民主主義」も成り立たない。政府の行為や政治にかかわる事柄について国民が正確な情報を「知る」ということは、「国民主権」と「民主主義」にとっての最も根底的な基礎なのである。いま、安倍政権のもとで、この根底的な基礎が、「モリカケ問題」を筆頭に、それこそありとあらゆるところで崩壊させられている。そこで、今回から数回にわたって、いま一度あらためて、「知る権利」というものを考えてみたいと思う。まずは基礎を押さえるという意味で、教科書的な説明から入っていく。

 まず、最も基礎的なこととして、「知る権利」という言葉は憲法には書かれていないが、だからといって憲法上保障された権利でないということになるわけではなく、それは、言論・出版・集会・結社その他一切の表現の自由を保障した憲法21条によって当然に保障されている権利である、ということを確認する必要がある。何かを表現するためには、さまざまな情報やいろいろな人の考え方・意見などを「知る」ことが大前提として必要になる。何も知らないで何かを表現することなど、できるはずがない。そういう意味で、表現の自由の保障は当然にその前提としての「知る権利」の保障を含むと考えなければならない。そもそも、人間の精神活動は、自分の心の中でものを考え、一定の確信を形成し、それを他の人に伝達し、他者とのコミュニケーションを通じて別の意見や情報を仕入れ、さらにまた自分で考え……、という、いわば連鎖的活動である。この連鎖の環のどこが切られても、人間の精神活動は成り立たない。つまり、この連鎖的活動の全体について、その自由が保障されなければならない、ということである。心の中で考えたり思ったりすること、自分の考えや知っていることを他の人に伝えること、他の人の考えや知識を知ること、このいずれが権力的な干渉によってゆがめられても、人間の精神活動は成り立たないのである。したがって、憲法における表現の自由などの精神的自由権の保障は、内心における精神活動が権力による抑圧や干渉を受けないこと(「思想・良心の自由」)、内心の精神活動の所産を外へ発表するについて同様であること(「表現の自由」)、そして、他の意見や情報を知ることについて、やはり、権力による抑圧・干渉を受けないこと(「知る権利」)、を内容とするものとして理解されることとなる。

 ところが、古典的な精神的自由権の体系においては、個人の精神活動の連鎖のうちの、他の意見や情報を知るという側面は、それじたいとしては一個の権利として取り上げられていなかった。つまり、意見や情報の受け手の権利というものは、独自の権利としては考えられていなかったのである。それは、送り手の側の表現する自由が保障されれば、その効果として、受け手の側の多種多様な意見・情報を受け取る権利というものは当然に実現されると考えられたためである。そこでは、すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手であるという状況が、前提にされていたのである。しかし、この前提は、現代国家においては完全に崩れ去り、もはや「擬制」にすぎないことが明白になった。

 それは、一つには、国家への情報の集中とそれに伴う国家秘密の増大のためである。現代の国家は、かつてのいわゆる「消極国家」と違って、国民のあらゆる生活領域に深くかかわるようになってきた。そのため、国民生活に直接関係するさまざまな情報が、国家の手に握られることとなった。ところが、官僚制的行政機構は、こうした膨大な数量の情報を、軍事・外交上の理由とか、より一般的には行政の円滑な運営などの名目のもとに、国民に知らせないようにするという傾向を強くする。国民生活に直結する情報でさえ、すべてが国民の前に開かれているのではなく、国家が必要と認めた情報だけが国民に対して知らされるという状況になっているのである。

 もう一つは、現代におけるマス・メディア、とくに新聞・放送などの報道機関の巨大化・独占化のためである。このことが、巨大なマス・メディアに対抗しうる有効な表現媒体をもたない国民大衆を、意見・情報の受け手の地位に固定化してしまったのである。つまり、誰もが送り手であると同時に受け手である、という状況は、完全に崩れ去ってしまったのである。送り手であるマス・メディアの側の表現する自由の保障は、それだけでは、受け手の側の、いろいろな意見や情報を自由に知る権利を充足できないものとなったのである。

 こうした現代国家の状況のなかで、従来独自の権利としては考えられなかった、精神活動の連鎖のうちの他の意見や情報を知るという側面に着目した権利が重要なものとしてクローズ・アップされ、「知る権利」という新しい権利概念がいわれるようになったのである。そして、この「知る権利」が、一つには国家のもっている情報に対して主張され、一つにはマス・メディアに対して主張されるものとなるのは、上述したようなこの権利の登場の背景に照らし、当然である。 次回は、「知る権利」の内容について、もう少し具体的に考えてみよう。



 

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