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浦部法穂の「憲法雑記帳」

 

第10回 「教育の自由」なんてものは、ない


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2017年3月9日

 4〜5歳の幼児に、「尖閣諸島、竹島、北方領土を守るよう」とか「日本を悪者扱いしている中国・韓国が心を改めるよう」とか「安倍首相頑張れ、安倍首相頑張れ、安保法制国会通過よかったです」などと「宣誓」させ、さらに「教育勅語」や「五箇条の御誓文」を暗唱させ、また軍歌を歌わせる。正気の沙汰ではない。まさかこんな幼稚園が存在するとは……。園児たちは、言わされていることの中身など、分かっていようはずもない。まして、自分たちの考えで言っているはずがない。ただただ先生に仕込まれたままに、覚えるようしごかれたままに、丸覚えした言葉を、否「音」を、叫んでいるだけであろう。これはもう、教育がどうのこうのの問題ではなく「幼児虐待」の域に達している。

 そして、さらに深刻な問題は、こんな幼稚園のやり方を、首相夫人(「私人」として?)のみならず現職の国会議員までが「素晴らしい教育だ」と絶賛し、首相自身も国会の場で、この幼稚園の理事長を「自分の考えに近い人だ」と公言し、防衛大臣に至っては、「教育勅語」の丸覚えが悪いことだとは思わない旨を、なんのためらいもなく言ってのけている、等々、権力の座にある者たちが当該幼稚園の「教育」に好意的・肯定的な考えを持っており、そしてそのことを隠そうともしなかった、ということである。これはすなわち、この国の権力中枢が「教育勅語」や「五箇条の御誓文」や「軍歌」やらによって表徴される「あの時代」への回帰を目指す勢力によって完全に占拠されている、ということを意味している。
 こうした強固な権力的後ろ盾があればこそ、この学校法人が国有財産を法外に安い価格・条件で譲り受けることができ、また、新設小学校の設置認可基準を自己に都合のよい形に変更させることができたのである。国有地売却をめぐる「疑惑」への追及が厳しくなるにつれ、当該幼稚園や理事長を「べた褒め」していた政治家たちは、首相も含めて、距離を置くようなことを言い始めたが、それは、「あっせん」や「口利き」といった「疑惑」が自分に向けられないようにする「保身」のためであり、この幼稚園で行われている「教育」を肯定する姿勢にはなんら変化はない。

 園児に「安倍首相頑張れ」などと言わせたことが教育基本法に違反するのではないか、という指摘・批判に対し、安倍首相はじめ政府関係者や自民党議員、あるいはその他の右翼勢力は、批判に窮して「安倍首相頑張れ」は「適切でない」と言う場合でも、「違法」とは断言せず、かえって、私学には建学の精神というものがあるのだからそれに基づく教育を行うことは許されており、そこに政治が介入すべきではない、などと、「物わかりのいい」ことを言う。いわゆる私立学校の「教育の自由」である。都合のいいときにだけ「自由」をもち出すのは彼らの常であるが、「自由」をもち出された途端にそれ以上には何も言えなくなってしまうというのも、日本の「リベラル派」というか「左派」というか、ともかくそういう勢力の常でもある。だから右翼の連中は、それを見透かして、本当は「自由」なんかに露ほどの敬意も払っていないのに、都合のいいときにだけ「自由」をもち出すのである。それに対するには、はっきりと「そんな自由はない」と言い切ることである。

 「教育の自由」に関していえば、そもそも憲法上「教育の自由」なんてものは、ない。「私立学校の」であれ、「教師の」であれ、「親の」であれ、「教育の自由」などというものは、そもそもない。じつは、私は、もう30年以上も前からそう主張してきた。しかし、政府自民党や文科省(文部省)による教育内容への権力的介入や教師への締め付けという長年の教育現場の現実の中で、それに抗するための理論としての「教育の自由」論は、一定の有用性をもったから、「『教育の自由』なんてものは、ない」という私の主張が学会において多くの支持を得られなかったのは、当然といえば当然のことだったのかもしれない。

 しかし、教育に関して憲法が保障しているのは、すべての国民の「教育を受ける権利」であり(26条)、「教育の自由」という言葉は、憲法のどこにも書かれていない。もちろん、憲法に書かれていないことがそれを否定すべき決め手になるわけではない。だが、教育という営みは、それをつうじて、「受け手」の側、とくに子どもの、人間としての成長・発達を支えるものであり、教育を行う側が自由にやっていいというものではない。教育において「主体」に位置づけられるべきは、教育を受ける子どもたちであって、教育を行う側ではない。そういう意味で、憲法が教育に関して、それを「受ける権利」を保障し「行う自由」を規定していないことには、十分理由があるといえる。教育内容や方法について、学校や教師が何でも自由に決めていいということになるわけではない。だからといって、国が決めるべきだということになるわけでもない。それは、子どもの「教育を受ける権利」を最もよく実現するためには、国や学校や教師が、あるいは親や地域社会などが、それぞれどのような役割を果たすべきなのか、という観点から考えられるべきことがらなのである。つまり、教育を行う側の自由や権利や権限やの問題ではなく、子どもの「教育を受ける権利」を実現するためにそれぞれの関係当事者が果たすべき責務の問題なのである。

 そういう視点をもてば、園児に「教育勅語」を暗唱させるのが「建学の精神」にもとづく「教育の自由」だなどというロジックのいかがわしさが、すぐに分かるはずである。そして、「自由」をもち出された途端に沈黙せざるを得なくなるということも、なくなるのではないかと思う。



 

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