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浦部法穂の憲法時評

 

日本国憲法「平和主義」の歴史的意味


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年8月11日

 8月は、先の戦争と憲法「平和主義」の意味について考えるいい機会である。8月6日、9日、15日前後には、多くの新聞・テレビで、戦争や平和に関連する何らかの特集が組まれるから、そういうものをきっかけに、自分なりにいろいろ考える人も多いと思う。このときだけでなく一年中ずっと考えることができれば、もちろんそれに越したことはないが、一年に一度この時期だけであったとしても、全然考えないよりは、はるかによいことだと思う。そこで、私も、この時期にあらためて、日本国憲法の「平和主義」の歴史的な意味について考えてみることにした。

 日本国憲法「平和主義」の歴史的な意味を考えるためには、まず、第二次世界大戦とは何であったのか、ということを考えてみる必要がある。第二次世界大戦については、これを「反ファシズム戦争」とする見方が有力のようである(とくに「進歩派」あるいは「左派」では?)。つまり、日・独・伊というファシズム・軍国主義の「悪の枢軸」に対して、米・英・仏・ソをはじめとする世界の諸国が侵略反対・反ファシズムの連合を組んでたたかった戦争だ、というわけである。これだと、米・英・仏・ソなどの連合国側は「正義の味方」で、日・独・伊のファシズム陣営は「悪者」だということになる。こうした見方に立てば、日本国憲法「平和主義」は、「悪者」の日本が「正義の味方」にコテンパにやっつけられて、「もう今後いっさい悪いことはしません」と「懺悔」したものだ、という位置づけになろう。

 しかし、私は、第二次世界大戦は「正義の味方」が「悪者」をやっつけるためにたたかわれたものではなく、本質的には第一次世界大戦の延長線上の帝国主義戦争だと考える。第一次世界大戦は、19世紀終わり以後、米・独・日という新たな帝国主義国が台頭したことによって、それまでのヨーロッパ列強(英・仏・西・露など)による帝国主義的世界分割の勢力均衡が破れたことによって勃発した。要するに、ヨーロッパ諸国による植民地争奪戦が英・仏・西・露の大国間の勢力均衡という形でそれなりに落ち着いていたところに、米・独・日という新興帝国主義国が割って入ったことによって、新たな植民地争奪戦が起こり、それが第一次世界大戦へとつながっていったのである。その結果は、勝った側の、とくに英・米・仏という三大国による帝国主義的支配の再編であった。それを不満とする敗戦国ドイツ、そして、第一次大戦では英・米などの側についたものの中国での権益をめぐって英・米などと対立せざるをえなくなった日本、などとの間での植民地再分割戦争が、第二次世界大戦だったのである。第一次大戦も第二次大戦も、つまりは、植民地や市場の分捕り合いで、いうならば、「やくざ」の縄張り抗争のようなものである。

 そのたとえで言えば、日本国憲法の「平和主義」は、「やくざ」の世界からの足抜け宣言である。日本国憲法「平和主義」の基礎にある哲学は、前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とする一文に示されている。欧米帝国主義列強に伍して植民地争奪戦を展開してきた軍事大国日本が、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して戦争放棄・戦力不保持を宣言したことの意味は、きわめて大きい。帝国主義諸国は、それこそ他人様の土地に勝手に入り込み、そこでドンパチやったあげくに力づくで自分のものにしてしまう。そうして、そこでもともと暮らしていた人たちを恐怖と欠乏に陥れ、その「平和のうちに生きる権利」を踏みにじってきたのである。そういう帝国主義の大国の一つであった日本が、世界中のすべての人の「平和的生存権」を認め、帝国主義的侵略と支配の道具であった戦争・戦力をいっさいしない・持たないとしたのである。それは、帝国主義との決別宣言以外のなにものでもない。縄張り争いを続ける「やくざ」の世界からはもう抜ける、「堅気」の世界で生きていく、という宣言なのである。

 「日本だけが悪いわけじゃないのに、なぜ日本だけが『悪かった』と謝らなければならないのだ。そんなのは『自虐史観』だ」という人が、日本の権力中枢のなかにも少なからずいる。しかし、それはまさしく「やくざ」の発想である。「やくざ」の世界に止まっているから、そういう発想になるのである。たしかに、日本だけが悪いわけではない。欧米列強も同じように悪いことをしてきた。しかし、「日本も」悪いことをしてきたことには間違いない。アメリカやイギリスなども同じだとしても、だから日本は悪くなかった、ということになるわけではない。そういう「悪い奴ら」のなかで率先して、過去を反省し今後「悪い奴ら」による分捕り合いのない世界を作ることに全力を尽くす、というのは、決して「自虐」なんかではなく、胸を張って誇るべきことである。真っ先に悪いことを悪いことだと気づいて同じことは絶対繰り返さないと決意した人と、いまだに悪いことを悪いこととも気づかず同じように悪いことを繰り返している人たち。はたしてどちらが誇れるか? 日本国憲法「平和主義」には、そういう日本国民の「誇り」がかかっているのである。

 残念ながら、現実の日本は、「やくざ」の世界から完全に抜けることができないままで来た。「やくざ」の世界に止まっているかぎり、「大親分」の庇護にも限度があるから、一人前の「やくざ」としての力を付けていかなければならない。そのことを臆面もなく打ち出してきたのが、安倍政権である。それは、憲法に示された日本国民の「誇り」を完全に捨てさり、再びどっぷりと「やくざ」の世界につかろうとするものである。格調高く「堅気の世界で生きていく」と宣言したのに、「やっぱりやくざの世界に戻りたい」では、いかにも情けないではないか。日本を、そんな情けない国にしてほしくない。



 

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