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浦部法穂の憲法時評

 

憲法の言葉シリーズD「個人」


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2014年3月10日

 「すべて国民は、個人として尊重される」とする憲法13条に示された「個人の尊重」原理こそ日本国憲法の最も根底にある原理だということは、これまで私は折に触れ言ってきた。この規定を、自民党改憲案は「すべて国民は、人として尊重される」と変えようする。「個人」という言葉を「人」に変えるというのだが、その理由は明示的には語られていない。が、どうも自民党は、「個人」が嫌いなようだ。「個人」というのは自分の権利ばかりを主張して「国や国民全体の利益」をないがしろにする好ましくない存在だ、ということなのだろう。ただ、そういう「個人」のとらえ方は、自民党だけのものというよりも、日本社会ではある意味一般的だともいえる。実際、日本では、「個人主義」という言葉は、一般には、「自分のことしか考えない」などといったような、よくない意味で使われることの方が多いように思う。

 「個人」とか「個人主義」という言葉は、こんにちでこそ私たちはあたりまえのように使っているが、もともとの日本語には「個人」という言葉はなかったという。それは、幕末から明治初期に、西欧文明を摂取していくなかで、英語で言えばindividualの翻訳語としてつくられた言葉であった。もともとの日本語にはindividualを表す適切な言葉がなかったのである。言葉がなかったということは、それに対応する実体(態)もなかったということを意味する。つまり、日本には「個人」は存在しなかった、ということである。「そんなバカな。日本にだって大昔から個々の人間はいたのだから、『個人』は存在しただろう」と思われるかもしれない。だが、個々の人間は存在したが、それは、「個人」(individual)に対応するような人間の存在の仕方ではなかったのである。

 西欧的なindividualというのは、ただ単に個々ばらばらに存在する人を意味するのでなく、自立した人格的存在としての一人ひとりの人間を意味する。そういう人間観が日本にはなかったから、individualを表現できる言葉が日本語にはなかったのであり、それを表しうるような言葉をつくらなければならなかったわけである。そうしてつくられた言葉が「個人」であり、したがって、「個人」という言葉は、一人ひとりの人間というだけでなく、自立した人格的存在という意味を含んだ言葉なのである。だから、「個人として尊重される」とは「一人ひとりが自立した人格的存在として尊重される」ということを意味する。それは、一人ひとりがそれぞれに固有の価値をもっているという認識のうえに、それぞれの人がもっているそれぞれの価値を等しく認めあっていこう、というものである。

 人間を「個人」つまり自立した人格的存在としてとらえ、そういう「個人」を「社会」の基本的構成要素とする考え方が「個人主義」である。ここでは、「個人」が「社会」的存在であることは当然の前提となっている。したがって、「社会」のなかで、自分が「個人として尊重される」と同時に、他者も同じように「個人として尊重される」ことが求められる。つまり、お互いがお互いを自立した人格的存在として尊重することが求められるわけである。「自分のことしか考えない」のでは「社会」的存在としての「個人」にはなり得ないのである。そういう意味で、「個人主義」と「利己主義」は、本来明確に区別されなければならないものである。

 人間を「個人」としてとらえるのでなく、その属性(集団帰属)によってとらえ、そうした諸集団を「社会」の基本的構成要素とする考え方は、「個人主義」に対して「集団主義」と呼ぶことができる。たとえば、封建社会は、人を身分によって序列づけ、そのような諸身分によって構成される社会であったから、「個人主義」の社会ではなく、いわば「集団主義」の社会であった。西欧では、そうした封建社会のなかから、自然発生的に「個人」が、つまり、「身分」の価値ではなく一個の人格としての価値を主張する自立した人々が、生まれてきた。しかし、日本の場合には、1868年のいわゆる「明治維新」以後も、社会のあり方は「集団主義」のままであり、国家体制としても、そのような社会のあり方を統治手段として再編・温存してきた(典型的には、天皇制と「家」制度)。そして、戦後は、工業化・都市化の進展とともに、しだいに、旧来の地縁・血縁を基軸とする集団は崩壊してきたが、それに代わって人々を包摂する新たな集団として、「会社」が大きな役割を果たしてきた。こうして、日本社会は、「集団主義」の要素をもちつづけてきたのである。

 「集団主義」の社会では、一人ひとりの集団構成員の権利・利益は、その集団が守る、という仕組みになる。したがって、一人ひとりの人間にとっては、自分の権利・利益を守るために必ずしも自分が何かする必要はなく、集団のなかでおとなしくしていさえすれば集団が守ってくれる、というわけであるから、ある意味で楽なシステムである。しかし逆に、集団のなかで、他の集団構成員とは違うことをしたり言ったりすれば、そのような人が集団のなかにいるということは、集団の結束力を弱め、集団による構成員の権利・利益保護の力を弱めることになるから、他の集団構成員にしてみれば、はなはだ迷惑な存在ということになる。だから、ここでは、「みんな同じ」(周りへの同調)がいいこととされ、「自己主張」は全体の利益を害するものとして「悪」とみなされる。「自分は自分である」と主張することは、つまりは「個人」の主張は、よくないこととされるのである。「集団主義」的な要素がなお抜きがたく残っている日本社会で、「個人」や「個人主義」というものがよくないイメージでとらえられがちだというのは、こうしたことも関係しているように思う。

 「会社社会」とも言われた日本社会であったが、しかし、いま、人々はもはや「会社」に頼って生きていくことはできないことを思い知らされている。だから、どこかの集団に属することで自分の権利や利益を守ってもらおうという「集団主義」的思考を捨てて、いまこそ「個人」として自立することが、人々には求められているはずだと思う。しかし、「集団主義」というある意味「楽なシステム」に馴れた人々は、「会社」の代わりに今度は「国」という集団に頼ろうとしているように見える。そうして「集団主義」の「集団」が「国」というレベルに収斂していったなら、それは単なる「集団主義」から「全体主義」へと、質的な転化をもたらすこととなろう。そういう意味でも、いま、「個人の尊重」ということの意味とその重要性を、あらためて考えてみる必要があると思う。



 

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