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浦部法穂の憲法時評

 

非嫡出子相続差別と集団的自衛権


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2013年9月23日

 「非嫡出子相続差別と集団的自衛権」というタイトルを見て、いったいこの両者にどんな関連性があるというのか、と訝しく思った方も多いであろう。実際、この二つの問題には何の関連性もない。その実体的な中身に関しては。しかし、近時のこの両者をめぐる展開には、一つの共通する問題がある。そして、その共通する問題の「ちがい」をきちんと整理しておくことは、立憲主義というものの理解にとって重要な意味をもつ。その共通する問題とは、「憲法解釈の変更」ということである。

 非嫡出子の相続分を嫡出子の二分の一と定める民法900条4号但し書の規定について、最高裁大法廷は9月4日、憲法14条が定める法の下の平等に反するとして、これを違憲とする決定をした(9月18日にも、同旨の決定が、同じく最高裁大法廷によってなされた)。この規定が憲法14条に反するということは、これまで多方面から指摘されてきたところであるが、にもかかわらず最高裁は、従来、本件規定を「民法が法律婚主義を採用している以上、法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇して定めるが、他方、非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものである」として、憲法14条に違反するものではないとしてきた(最高裁大法廷1995年7月5日決定)。それから18年経ってやっと違憲決定にたどり着いたわけであり、遅きに失するの感はあるが、ともかく、違憲の結論自体は当然のものと評価される。

 さて、ここで最高裁は、従来合憲と解してきた規定を違憲としたわけであるから、みずからの憲法解釈を変更したといえる。もっとも、今回の決定で、最高裁は、違憲判断の根拠として、「婚姻、家族の形態が著しく多様化しており、これに伴い、婚姻、家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいる」ことや、1998年にドイツで、2001年にはフランスでも、嫡出子と非嫡出子の相続差別を撤廃する立法措置がとられ「現在、我が国以外で嫡出子と嫡出でない子の相続分に差異を設けている国は、欧米諸国にはなく、世界的にも限られた状況にある」といった諸外国の動向、等々の、社会的・政治的な諸事情の変化ということを挙げ、そうした諸事情の変化によって「本件規定は、遅くとも(本件相続が開始した)平成13年(2001年)7月当時においては憲法14条1項に違反していた」とする論法をとった。したがって、最高裁は、今回の決定は本件規定を合憲とした1995年の大法廷決定(ならびに、それに続く各小法廷での合憲決定)を変更するものではない、と言っている。しかし、これは、95年の合憲決定が間違いだったと言いたくないがための「方便」のようなものであり(間違いだったということになれば、いったん確定して決着した相続争いが蒸し返され、大きな混乱を招く恐れがある)、実質は95年決定の変更である。そういう意味で、ここで最高裁は、憲法解釈を変更したといえるのである。

 一方、集団的自衛権については、これまで、政府は、憲法上行使できないという解釈をとってきた。この解釈を、安倍政権は、いま、行使できるというように変えようとしている。つまり、これまで政府解釈で違憲としてきた集団的自衛権の行使について、これを合憲とするように政府の憲法解釈を変えよう、というのである。政府が、これまでのみずからの憲法解釈を間違いだったとして変更するのは、今回の非嫡出子相続差別の事例のように、最高裁が判例変更によってみずからの憲法解釈を変更するのと、一見同じことのように見える。どちらもみずからの過去の解釈を間違いだったとして変更するのだから同じだろう、ということになりそうである。政府の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を認めよ、と主張している人たちは、どうもそう考えているようにみえる。しかし、そこには大きなちがいがある。

 一つは、その憲法解釈の主体が最高裁か政府かというちがいである。憲法の規定は、必ずしも一義的ではなく、解釈の余地は小さくない。だから、政府が執行・行政作用を行っていく際に、みずから憲法を解釈し一定の解釈を前提に置くことが必要となる場合も少なくない。その意味で、政府にも憲法解釈権はある。これは、国会についても同様で、国会が立法を行う際にも、みずから憲法を解釈する必要が出てくることもあるはずである。しかし、政府や国会の解釈で憲法の意味が確定してしまうということになれば、「統治権に対する法的制限」としての立憲主義の意義は大きく失われることにならざるをえない。まさに統治権の主体であり中枢に位置する政府や国会が、みずからに対する制限の中身を決定できるということでは、制限の意味が実質なくなってしまうであろう。そこで、政府や国会が合憲と判断して決めたことであっても、それが本当に合憲といえるのかどうかを、厳密に法的に判断する機関と制度が必要となる。その制度が、こんにち各国で普遍的なものになっている違憲審査の制度であり、その機関が、日本国憲法のもとでは最高裁なのである。つまり、日本国憲法のもとで最終的な憲法解釈権をもつのは最高裁であり、政府や国会の憲法解釈は、言ってみれば暫定的なものに過ぎないのである。だから、最高裁が憲法解釈を変えるのと政府が(国会も同じ)憲法解釈を変えるのとでは、意味が全然ちがうのである。前者は、法的には確定的な効果をもつが、後者は、憲法の意味内容を確定的に変更するような法的効果をもつものではない。したがって、政府が憲法解釈を変えるだけで集団的自衛権の行使が可能になるなどということは、法理論的に成り立たない。

 第二に、従来合憲としてきたものを違憲にするのと、違憲としてきたものを合憲にするのとでは、同じ憲法解釈の変更といっても、その意味は大きくちがう。従来合憲としてきたものを違憲だとして変更するのは、基本的に、統治権に対する制限の内容や幅を広げることを意味する。これに対して、従来違憲としてきたものを合憲と変更するのは、逆に、統治権に対する制限を緩めることを意味する。要するに、制限を厳しくする方向での変更か、緩くする方向での変更か、というちがいである。これを、とくに政府や国会による変更として考えたとき、前者であれば、基本的には、憲法による制限をより厳格に受け止めて権力行使にあたるということであるから、政府や国会がそのような憲法解釈の変更を行っても、ただちに立憲主義に反するということにはならないだろう。しかし、後者の場合には、政府や国会が、これまでの憲法上の制約を自分たちで勝手に緩めたりなくしてしまう、ということにほかならないから、正面から立憲主義に反するものとなる。統治権に対する「憲法上の制約」である以上、それが明文上の制約であっても解釈上導き出された制約であっても、統治権の主体である政府や国会が自分たちで勝手にその制約を緩めたりなくしたりしてしまうのは、明らかに立憲主義に反すること、言うまでもなかろう。その制約を緩めたりなくしたりできるのは、憲法制定権者である国民だけであり、唯一可能な道は憲法改正の手続を踏むことだけである。

 以上述べたところから、非嫡出子相続差別の問題における憲法解釈の変更と、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更とでは、意味がまったくちがうということが理解されたと思う。前者は最高裁による解釈変更であり、また従来合憲とされてきたものを違憲とする変更であった。この解釈変更には、立憲主義の観点から問題となるべきところはない。これに対し、集団的自衛権の問題は、政府による憲法解釈の変更であり、しかもこれまで違憲としてきたものを合憲とする変更である。このような解釈変更に確定的な効果をもたせ、それによって集団的自衛権の行使を認めるということになれば、それは立憲主義の完全な破壊を意味することになる。



 

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