法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

Mail info@jicl.jp
 
今週の一言
憲法情報Now
 憲法をめぐる動向
 イベント情報
 憲法関連裁判情報
 シネマ・DE・憲法
 憲法関連書籍・論文
 ■今日は何の日?
憲法Voice
研究所・客員研究員紹介
中高生のための憲法教室

憲法文献データベース
日本国憲法全文
リンク集
 
事務局よりお知らせ
賛助会員案内
メールマガジン
ご意見フォーム
サイトマップ

浦部法穂の憲法時評

 

民主主義と独裁


浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2011年5月19日

 ついに本性を現したというべきか。大阪府の橋下知事率いる地域政党「大阪維新の会」が、府下の小・中・高等学校の入学式や卒業式などにおける「国歌斉唱」の際に教員の起立を義務づける条例案を府議会に提出することを決めたという。当初、府立学校だけを対象に考えられていたようだが、橋下知事の「小・中学校のほうがもっと大事だ」という一言をうけて、市町村立を含めた府下全公立学校を対象とする条例案として提出されるようである。「維新の会」は、先の統一地方選の結果、大阪府議会の過半数の議席を占めているから、条例案が提出されれば、可決は確実である。

 教育現場への国旗・国歌といった国家シンボルの強制は、国家というものに絶対的な価値を見出し、国家権力に唯々諾々と従う国民を育成するために、きわめて有効な手段である。そういう国民が増えれば増えるほど、権力に歯向かう者は少なくなるから、権力者は自分のしたいように権力を行使できるようになる。自分の一言にみんなが従い、なんでも自分の思い通りにできるというのは、権力者にとっては快感でもあろう。権力者がそういう快感を味わえる体制を、「全体主義」とか「独裁」という。国旗・国歌強制の行き着く先が「全体主義」だということは、前にこの欄でも指摘したとおりである(「国旗・国歌強制のほんとうの問題」2011年2月3日付)。

 今回は、その点とは別に、橋下流の論理に潜むもう一つの危険性を指摘したい。条例によって国歌の起立斉唱を義務づけることを正当化する橋下知事の論理は、報道などを総合すると、@君が代を起立して歌うというのは社会儀礼であり、国歌斉唱の際に起立するのは社会常識だ、A何が社会常識かは価値判断にかかわることで、意見が割れたときには最後は(民意の支持を背景にもつ)公選職が決めることだ、B起立斉唱は、公務員にとっては組織のルールであり、その組織ルールに従えないのなら公務員(教員)を辞めるべきだ、というようなことらしい。@ABいずれも乱暴な論理であるが、私がここでとくに注意を喚起したいのは、Aである。つまり、橋下知事の強気な、強引ともいえる府政運営を支えているのは、彼に対する府民の圧倒的な支持だという事実である。だから、彼は、自分の価値判断が大多数の府民の価値判断なのであり、したがって、意見が割れたときには最後は自分が決める、それが民意にもとづく政治だ、というのである。橋下知事の強引な府政運営には批判もあったが、しかし、「民意」は「大阪維新の会」を圧勝させ一気に過半数の議席を与えたのである。彼が、自分の考えこそ民意そのものだと思い上がるのも、無理からぬところがあるといえるかもしれない。ともかくも、それが、「民主主義」の結果なのだから。

かつて、1933年に、ドイツでヒトラーが首相の座についたとき、彼は、革命やクーデターといった暴力的手段で政権を奪い取ったのではなかった。ヒトラーが国民の支持を集め、その率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が選挙で勝利して、彼が首相に任命されたのであった。つまり、これも「民主主義」の結果だったのである。この「結果」が、その後のドイツおよび世界に何をもたらしたかは、周知のことである。

同じ時期、日本でも、軍部ファシズムの圧政と侵略が、日本のみならずアジアの国々の人々を恐怖に陥れていた。ナチス・ドイツと同じ道を、日本も歩んでいたのである。だが、日本の場合、それは、「民主主義」の結果ではなかった。当時の日本は、もともと「民主主義国家」ではなかったからである。だから、日本の場合には、「民主主義」でなかったためにファシズムが勃興したのだ、という言い方をしても、まちがいとはいえない。

 そして、日本は、第二次大戦後、「民主主義国家」として「立派に」再生を遂げた。その日本が、「いつか来たみち」を再び歩み始めることなど、もはや、あろうはずがない。かつてのファシズム体制は、「民主主義国家」でなかったことの帰結なのだから……。多くの国民は、たぶん、そう思っているにちがいないと、私にはみえる。しかし、「民主主義」は、その枠組があるというだけでは、それほどの力をもつわけではない。むしろ、時としてそれは、自らを死滅させることさえある。そして、その過程には、必ずしも「自覚症状」はない。「民意」にもとづく政治が行われているはずなのに、いつの間にか、気がついてみたら「民主主義」は死に絶えていた、ということにさえなるのである。そのことを、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至るまでの間のドイツの歴史が実証しているのである。

 橋下徹という人物が、アドルフ・ヒトラーほどの「大物」になるとも思えないが、ヒトラーが権力を掌握し遂には独裁権力者となっていった過程は、「民主主義が民主主義を滅ぼす」ことも現実にあるのだ、ということを私たちに教えている。そして、いま、この日本で、大阪にかぎらずあちこちで、同じ過程が進行中のようにみえる。民主主義と独裁は対立する概念であるが、決して両者無縁のものではない。民主主義のルールに従っているかぎり独裁権力が表れることなどありえない、と考えるのは、歴史に照らして、明らかに誤りなのである。権力とは、人々を支配し服従させることのできる力である。だから、たとえ民意の基礎のうえにたった権力であっても、ひとたび権力として成立した瞬間から、それは人々の意思(民意)そのものではなくなる。そのことを、私たちが十分に自覚しないで、権力への不断の監視を怠ったとき、「民主主義」の結果としての「民主主義」の死滅、という現象が現実化するであろう。大阪府の「君が代起立義務化条例」は、日本の民主主義の死活に関わる問題だといって過言ではない。

 

[今週の一言][憲法情報Now][中高生のための憲法教室][憲法文献データベース][事務局からのお知らせ]
[トップページ]