アメリカ合衆国大統領という統治機構のトップに位置する人物が、新型コロナウィルスを「中国ウィルス」「武漢ウィルス」とツイッターで頻繁に呼称したことは記憶に新しいとおもいます。ウィルスそれ自体は特定の層をターゲットにして感染する筈がないことは自明です。それにもかかわらず、不可視なウィルスへの恐怖に駆り立てられ、この不安を解消するために「このウィルスをばらまいたのは誰だ?」という問いを通じて、誰かを攻撃の対象とし排除するという光景を私たちは今も目の当たりにしています。より「身近」な例を挙げれば、「なぜ芸能人が政治的発言をするのか?」、「なぜ女性が料理をしないのか?」という特定の職業や性に関する偏見、ヘイトスピーチ等、程度の差こそあれ、私たちの身の回りにも「思い込み」や「決めつけ」、そして「差別」は潜伏しています。
ところで、こうした「差別」はある「特別な」人たちが行うものと考えている人も多くいるはずです。あるいは、「自分は差別を受けたことがない『普通』の人間だ」と発言する人もいます。しかし、「差別」は本当に「私には関係のない」ことなのでしょうか。つまり、上記の出来事とは完全に切断された生活を送っていると断言できるのでしょうか。
本書に通底する問題意識はこの点にあります。著者によれば、「差別」とは「さまざまな『違い』を持つ他者を、何らかの理屈を立てて自身の世界から『遠ざけ』、『貶める』営み」であり、これは社会学的な現象として日常生活世界に生起する「よく見られる」現象です。「差別」を「特別なこと」だと当然視するのではなく、自身とは異なる他者と共存し、相手を理解しようという過程で半ば必然的に生じてしまう現象であるとして、「差別」を捉え直す必要性が強調されます。「『普通』の人間であれば、差別しないし、差別などに関わりがないはずという考えは、まったく根拠のない幻想」だと断言されます(30頁)。「私たちと同じような人」がヘイトスピーチや性に基づく決めつけ、排除等を日常的に行うのです。
まずは既存の固定化した考えを疑い、それでは、「なぜ自分は差別をしてしまうのか?」として自らの「差別する可能性」、「差別」に直面したときの自身の「反応」等を丁寧に自己点検し、冷静に見つめなおす必要があります。そのような意味で、「差別」は他者に新たに向き合い、理解を深める一種の指針として機能し、活用できるものになります。著者によれば、「差別する可能性」とは、「差別者になる可能性」ではないのです(40頁)。
とはいえ、こうした営みは思うほど簡単には進みません。従来の差別への抵抗運動も功を奏したものもあれば、より溝を深めてしまう効果をもたらしたものもあります。本書では、ヘイトスピーチ、ジェンダー、障害、人種・民族、外見等の観点からこうした困難性や問題の本質を明らかにしつつ、上記の問題意識をより明確にしていきます。なお、本書には映画やアニメ、漫画等が適宜紹介されており、私たち読者は五感に従って問題への理解を深めることができ、著者の主張がより説得的に説明されます。また、著者が大学で指導する学生たちの反応も紹介されており、現役の学生たちがどのようにして「差別」問題と向き合っているのか等を知ることができます。こうした点も本書の魅力の一つです。
「『差別』は自分にも関係する問題である」、「自らも『差別』を行う当事者である」と捉えることを少々しんどいと思う人も中にはいるかもしれません。しかしながら、著者が繰り返し強調するように、それが他者とのより良い共存の第一歩なのです。「分断状態」が至る所で生じている現代こそ、こうした知的営みが真価を発揮するのではないでしょうか。
目次
はじめに
第一章 差別とはどんな行為か
第二章 差別を考える二つの基本
第三章 カテゴリー化という問題―他者理解の「歪み」を考える
第四章 人間に序列はつけられるのだろうか
第五章 ジェンダーと多様な性
第六章 障害から日常を見直す
第七章 異なる人種・民族という存在
第八章 外見がもつ“危うさ”
第九章 差別を考えることの“魅力”
おわりに
【書籍情報】2020年11月、ちくまプリマ―新書。著者は好井裕明。定価は880円+税。