憲法に関心のある方なら、「芦部信喜」という名をご存じの方が多いのではないでしょうか。
芦部教授の著した『憲法』(岩波書店)は、「多くの読者の圧倒的な支持を受け、四半世紀にわたって読みつがれてきた憲法教科書の決定版」であり、「日本国憲法を理解したいすべての人にとっての必読書」であると謳われています(岩波書店Webサイトより)。
本書は、信濃毎日新聞に2018年6月27日から2020年4月29日まで55回にわたり連載された、芦部教授の生誕から憲法学との関わりを描いた評伝である「芦部信喜 平和への憲法学」に、連載と関連する2件のスクープ記事をもとにしたものを加えて構成されています。
筆者は、あとがきで次のように述べています。「戦争の悲惨さを身をもって体験した芦部氏は、日本国憲法の理想を忠実に社会で実現させるために奮闘された。芦部憲法学に触れることは、憲法の原点を見つめ直すこともである」(160頁)と。
憲法の基本原則を大切にする芦部教授の姿勢は、学徒出陣と特攻隊候補生という戦争体験がその背景にあるとされており、平和と人権を守ることに対する芦部教授の確固たる思いが随所に伝わってくる内容となっています。
第1章では、芦部教授の憲法論には、小中学生時代に学んだ教諭の教えが影響していることが描かれています。また、東京帝国大学法学部に入学したものの、わずか2か月後には陸軍での軍隊生活を余儀なくされたこと、終戦後に復学し、宮沢俊義教授の憲法論などに触発されたことにより、個人の尊厳と自由を擁護する憲法論を構築する使命感を抱いたことが記されています。
第2章では、憲法前文を「政府が平和構想を示したり、国際紛争の平和的解決のための具体的措置を講じたりするなど、積極的な行動をとることを要求している」(37頁)と解し、「不戦の誓い、非武装の理想…を堅持することによって初めて、憲法学者として、あの戦争で尊い生命を絶った犠牲者に鎮魂の誠を捧げる道が開ける」(39頁)と考えた芦部流の積極的平和主義が紹介されています。
第3章では、芦部教授がアメリカ留学後日本において憲法訴訟論を開拓し、その定着に腐心した様子が描かれています。芦部教授は、鑑定意見書を裁判所に提出したり、証人として証言台に立ったり、弁護団に助言をしたりと、数々の憲法訴訟に身を投じられています。
その淵源には、「多数決の民主主義でも破れない『人間の尊厳』の原理等…を盛り込む憲法は、…実質的価値においても最高法規である。それを守るのが裁判所の役割であり、そのためにこそ憲法訴訟論はある」(134頁)という考えがあります。
芦部教授の憲法訴訟における功績は、「現代においても訴訟に関わる人たちに光をともし、その周辺に種をまいて」いる(106頁、樋口陽一氏)と評されています。
第4章では、芦部教授も委員の一人として参加されたいわゆる「靖国懇」に関し、懇談会発足の背景、議論の様子、芦部教授の葛藤が描かれています。「平和と人権が守られる社会を築いていくためには、憲法の基本原則を固く守ることがどんなに重要で…あるか、決して忘れはならない」(80頁)との考えのもと、特に憲法に定められた政教分離原則は厳格に解すべきであるとの立場を貫き、「閣僚の公人としての参拝には憲法上大きな疑義がある」と説かれています(本書に収録された懇談会第7回会議の議事録より)。
しかし、このような考えは懇談会においては少数意見にとどまり、懇談会の報告書は合憲・違憲の両論併記とし、各種の問題点等を指摘して政府の参考に供するという形式にとどめるべきだとの芦部教授の主張は、受け入れられなかったようです(芦部信喜『宗教・人権・憲法学』(有斐閣、1996年)96頁以下参照)。
第5章では天皇制についての考えについて述べられ、第6章では芦部教授の同僚だった人、学部生時代に講義やゼミを受講した人、大学院生時代に指導を受けた人などにより、芦部教授の人となりや学問的功績について語られています。
目次
第1章 源流 伊那谷から
第2章 憲法改正と自衛隊
第3章 人権と自由
第4章 国家と宗教
第5章 象徴天皇制とは何か
第6章 インタビュー 芦部憲法学から現代を問う
番外編 二つのスクープ
【書籍情報】2020年10月、岩波書店。著者は渡辺秀樹。定価は1900円+税。
【関連HP:今週の一言】
◆当研究所の伊藤真所長も、芦部教授の教えを受けた一人です。
伊藤真所長は、芦部教授の思い出について次のように語っています。
駒場の大教室で受けた芦部先生の授業は、いつも満杯でした。
授業は表現の自由までの重要なところを深く掘り下げるというものでしたが、日本国憲法制定の経緯について相当丁寧に論じられていたことが印象に残っています。
芦部先生は板書を一切せず、淡々と講義をされていましたが、芦部先生の書かれたものからは、先生の熱い思いが伝わってきます。
特に感銘を受けたのは、宮沢俊義先生について書かれた論文(「宮沢俊義 徹底したリベラリスト」法学セミナー1980年3月号所収)です。
芦部先生は、法学者は単に法の科学者ではなく、法を解釈しながら実践していくことが大切だという宮沢先生の教えに基づき、憲法訴訟論を構築されました。
私は、司法試験の受験生時代に芦部先生の3部作を始めとした論文集を読み込み、憲法訴訟論を自分なりに整理し咀嚼して、理解するように努力しました。
その後は、法を解釈しながら実践していくことが重要であることを理解した法曹を養成することに努め、弁護士登録後は憲法訴訟を実践していくことに取り組んでいます。
また、個人の自由と自律を最大限に尊重した宮沢先生の姿勢に触れたこの論文を読んで、個人の尊重が重要な概念だとわかりました。
私の受験勉強用にまとめたノートには、この論文を読んだ感想として、法学の根底には人間の尊重、個人の人格の尊重があることを知った深い感慨が記されています。
東大入学時には外交官になることを夢見て天下国家を論じ、より良い国にしたいという思いでいましたが、宮沢先生の業績や芦部先生の教えに触れて、1人ひとりの個人に視点が向くようになったのです。
このように、宮沢先生の業績とそれを受け継いだ芦部先生の教えが、私の原動力になっています。