この映画は、シリアの民主化運動をとらえた、あるいはそれを弾圧する側が撮影しYouTubeなどにあげられた1001に映像によってつくられたことが語られています。(1001という数は千夜一夜と同じでたくさんの、という意味だそうですが)
映画の特に前半、民主化のデモの参加者が撮影したのであろう映像がありますが、なかには鎮圧の警官の暴力に倒れ、路上に流れたおそらく自分の血をとらえたまま動かなくなった映像がありました。その時、撮影者は絶命、いのちを失ったのではないかと想像させます。
私はこの映像を見て、学生運動が盛んだった1970年代はじめの頃に読んだ高橋和巳著の「試写の視野にあるもの」(『わが解体』所蔵)という文章を思い出しました。路上の闘いに斃れた活動家を悼んだその文章には「もし死者がこの世で最後に見た映像を復元しうるものとすれば、その映像こそが何よりも鮮明に現在の人間関係のあり方、その恐ろしい真実の姿を象徴するはずなのである」とあります。
この映画のそうした映像からは、闘いの途中に斃れた無念、映像を撮り、送り、残すことによって、自分たちがかち得ようとした自由や未来を伝えようとして、それがたたれた瞬間、まさに死者の(最期の)視野にあった「彼らの断たれた希望」ではないかと感じさせるものが伝わってきます。
「映画を上映しよう!」映画監督にそう語った彼の友人は、そう語った次の日、デモの中に死んだ、と監督の声で訥々と、でもそこに悲痛さを忍ばせて語られます。「シネクラブをうちの近所につくりたい」「映画を見て話し合うんだ」。映画が好きでたまらなかったのであろう彼らの語る夢が悲痛です。
カメラを回していて斃れた人も、あるいはそうした断片をつなぎ合わせてこの作品をつくろうとしている監督も、けして希望を探すことなどできないシリアの情況にありながら、映画への愛情と希望にあふれていることを感じさせます。
この映画は、シリア内戦の悲劇を告発し、伝えようとするとともに、そのシリアから脱して、遠くフランスに在って祖国の惨状を知り、苦しみながら、いらだちの心証を描いた私的な映画の側面を持っています。逃げ出した自分を責め、孤独に苦しむ監督の思いを映像にしていくことがストーリィの軸になります。
特に後半の話の軸は、シリアに残ってカメラで祖国の現在を撮り続けているクルド人の女性との交信が中心になっていきます。
『シリア・モナムール(シリアわが愛)』という題名がそれを物語っています。そして監督は自問自答のように映像を撮ることの意味、「映像に何ができるか」、「生きることの意味」を語りかけ、シリアのホムスに立てこもったクルド人女性シマブまた、「自分に何ができるのか」、「自分の人生は何なのか」を映像を撮りながら深化させていきます。
映画の終わりにシマブはトルコ国境の難民キャンプで子どもたちに勉強を教えるコミュニティスクールをやっていることが語られます。それは彼女が、シリアで撮り続けたものからもわかります。彼女の目の中にあったのは、どんな悲惨な状況の中でも生きようとする子どもであって、当然、そうした子どもたちのところに向かっていくだろうな、と思わせるものがあります。
再び前半の「死者の視野にあるもの」。ここではこころざし半ばに殺された映像作家たちがとらえたもの。高橋和巳は、デモや政治運動の中で倒れた死者たち、彼らを弾圧によって死に向かわせた権力に対して怒りながら、こう書いています。
「これら道半ばに斃れた人々の無念さを思わずにはいられない。これらの人々は『日本の最良の息子たち』であり、最良の娘たちであり、最良の隣人であると思う。この人たちは、それぞれの場で、実に真摯に自己を追求した人たちであり、正当な意見とともに自分の弱点やためらいもけして隠さなかった素直な人たちだった。」
何かを伝えようとカメラを回しながら斃れたたくさんの人々の映像、それらの映像を撮った人たちの無念や託したかった希望が強く感じられます。このような闘いへの思いが歴史をつくり、世界をつくっていくのであろうことを想像させます。
監督 オサーマ・モハンメド ウィアーム・シマブ・ベデルカーン
音楽 ノマ・オルマン
写真 ウィアーム・シマブ・ベデルカーン
オサーマ・モハンメド
2014年 シリア・フランス合作・96分
配給 テレザとサニー
公式ホームページ:http://www.syria-movie.com/
自主上映受付:terezatosunny@gmail.com
山形国際ドキュメンタリー映画祭2015|優秀賞
ロンドン国際映画祭2014|ベスト・ドキュメンタリー賞
カンヌ国際映画祭2014|特別招待作品
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