ゴジラとはいったい何なのか?なぜ日本を襲うのか?
1954(昭和29)年に制作された『ゴジラ』第1作については、書籍「映画で学ぶ憲法」に「『ゴジラ』の時代」という水島朝穂先生の読む者をわくわくさせる論考があります。そこではこの映画が生まれた時代に注目し、その凶暴さによって日本人の生活を脅かし、破壊させたものとして、まだ人々の記憶に生々しい「戦争」あるいは「原爆」「核実験」が時代背景としてあることが語られています。
では「シンゴジラ」とは何なのか?現在に日本における何を象徴した「脅威」なのか?
そう考えると、どうしても私たちの頭に浮かぶ凶暴なもの、3.11の地震と津波、それにより破壊された福島原発を想起させます。第一作のゴジラ自身、その凶暴さの内に秘めているものは核エネルギーであり、シン・ゴジラは放射能をまき散らし続けるコントロールのきかない原発そのものです。黒い体のヒダの合間に見える赤い色が出血のようで痛々しく、内側で燃えさかっているマグマのようにも見えて、ゴジラ自身、苦しみもがいているようにも見えます。
映画はなかなか姿を現さず、得たいしれない巨大な生物、そして姿を現してからは暴れ回ることで街を全面破壊に陥れる街の中のゴジラの姿と、その情報確認と対応に右往左往する首相官邸の二つの舞台でストーリィが展開されます。
その官邸の混乱ぶり、疲弊ぶりは9.11の原発事故時の官邸の様子をやはりドラマで描いた『太陽の蓋』を思い起こさせました。
そうだ、いま、我が国においてもっとも緊急事態を巻き起こす危険は、原発事故に他ならない。
ゴジラはどう考えてもその存在自体、荒唐無稽であり現実感がありません。 現実感がないから楽しめる一種のファンタジーになります。しかし日本を最大の危機に陥れるものが「原発事故である」と認識したときに、ゴジラに対する自衛隊兵器が全く役に立たないのと同様に、また事故以前には何らの有効な対応策も取られていなかったこととも合わせて、緊急事態は原発にありということが見えてきて納得がいきました。防衛省のほぼ全面的な協力によるというおびただしい自衛隊兵器使用のオンパレードを見せられますが、結果的にそれらは何の役にも立たないというのは、ゴジラ第一作以来、これまで日本を襲ってきた映画の中の怪獣のお約束でしょうか?
相手は、原発と考えてみれば、福島原発事故の時、自衛隊ヘリで水をまいて冷やすよりすべがなかったように、ゴジラの内部原子炉を血液凝固剤によって放熱システムを決死隊で止めるより方法がないということになります。
映画の前半、脅威がなかなか姿を見せないので半信半疑、意味不明なやりとりが繰り返されるところ、不安感をあおっていくところなどはゴジラ第1作へのオマージュのような形で丁寧な、気持ちをつかんだ演出がよくできていると思いました。特撮映画を十分に楽しめる、細部にこだわったリアリティ、話のつじつまを合わせている設定やストーリィ展開なども好感が持てました。
ただ後半の官邸での若手政治家が活躍する部分は、あまり個性と人間味を感じさせない演技で今ひとつ、と思ってしまいました。実際の官邸においてもこのようなお子様議論がまかり通っているということでしょうか?
いずれにしても具体性と切実性のない「緊急事態」が取りざたされる「まがまがしさ」のようなものを感じさせるという意味では、なかなか見応えのある映画だと思いました。
■ スタッフ
総監督・脚本・編集:庵野秀明
監督・特技監督:樋口真嗣
准監督・特技総括・B班監督:尾上克郎
撮影:山田康介
照明:川邊隆之
画像設計:庵野秀明
録音:中村淳
整音:山田陽
音響効果:野口透
編集・VFXスーパーバイザー:佐藤敦紀
音楽:鷺巣詩郎
楽曲協力:伊福部昭
美術:林田裕至・佐久嶋依里
総監督助手:轟木一騎
助監督:足立公良
製作:市川南
エグゼクティブプロデューサー:山内章弘
製作プロダクション:東宝映画、シネバザール
製作・配給:東宝
■ キャスト
長谷川博己 (矢口蘭堂:内閣官房副長官(政務担当)
竹野内豊 (赤坂 秀樹:内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)
石原さとみ (カヨコ・アン・パタースン:米国大統領特使)
大杉漣 (大河内清次:内閣総理大臣)
柄本明 (東竜太:内閣官房長官)
余貴美子 (花森麗子:防衛大臣)
2016年作品 日本映画 119分
公式サイト:http://shin-godzilla.jp/
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