ものはよく見えない、でも否応なく声が聞こえる。音が聞こえる。
もうろうとした熱に浮かされているときの夢の中のような映像だ。悪夢だ。それはおそらく人類の歴史の中でも最悪の悪夢。
よく見えないことがかえって、自分の今までもっていた記憶の中のイメージを呼び起こす。裸にされた死体の山は見えなくてもそれとわかる。
その中に自分がいることがあり得ないのに、あたかも自分がその悲惨きわまりない喧噪の中に放り出されているような不安と混乱を呼び起こす。
そしてそこでは、世界の歴史の中でもこれ以上ない悲惨な「処理」が進められている。
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。
サウルは、ハンガリー系のユダヤ人で、ゾンダーコマンドとして働いている。
ゾンダーコマンドとは、ナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことである。彼らはそこで生き延びるためには、人間としての感情を押し殺すしか術が無い。
ある日、サウルは、ガス室で生き残った息子とおぼしき少年を発見する。
少年はサウルの目の前ですぐさま殺されてしまうのだが、サウルはなんとかラビ(ユダヤ教の聖職者)を捜し出し、ユダヤ教の教義にのっとって手厚く埋葬してやろうと、収容所内を奔走する。
そんな中、ゾンダーコマンド達の間には収容所脱走計画が秘密裏に進んでいた・・・。
ユダヤ教では火葬は死者が復活できないとして禁じられている。(公式ホームページ ストリーより)
映画を見終わった今でも、頭の中に工場のような中のような音が、うめき声が響いている。
リアリズムではない。ほんとうはこんな風ではなかったのかもしれない。ドキュメンタリーというのとも違う。
でもその場に居合わせているという当事者の感覚を強いられる。その感覚はすでにマヒしている。死が充満している。大量の死のにおいさえも感じる。
あの少年、「息子」とはサウルにとって何だったのだろうか。
生きること、抵抗することを絶望したサウルの中で呼び起こされた何かであることだけは間違いない。サウルはすでに自分の「意思」を失っている。表情がない。自分がない。体が動いているだけ。彼はすでに死んでいるのだ。
しかし、殺された少年をユダヤ教の方法で、ユダヤ教の聖職者の祈りによって埋葬したいという一点のみに自分の意思をもった。少年を埋葬することだけが、彼自身の未来につながるものとしてショートした。だから死を恐れるという感覚すらなくなった。
ナチのホロコーストについて「なぜ、こんなことをやってしまったのか」「どうしてこんなことができたのだろう」とあらためて思った。
時折サウルの視界の片隅に現れるドイツ軍兵士の姿。ゾンダーコマンドたちにこんな「処理」を強いている親衛隊。
こんなことができてしまう軍隊という組織について考えた。
兵士が誰も疑問に思わなかったということはないだろう。誰にも止められなかったのか。脅されていたからのか。兵士はこの疑問を持ったら続けていけるわけがない。
そう、兵士もサウルたちゾンダーコマンドも個人はなく、意思もない。個人の意思、人間的な感情があったら戦争はできない。
アメリカでも、ソ連でも、中国でも、日本においても、軍隊である以上同じことだろう。だから軍隊という組織ができて以来、少なくとも近代戦において、そうした虐殺の歴史を繰り返してきた。止めることができなかった。
今こうした虐殺もいとわない戦争ができるように、日本でもまた、個人と意思と感情を出さない人間を長い時間かけて作り出し、実戦に役立てようとしている。何のために、軍隊は自分が殺されることをいとわないことを求められると共に、まず自分を殺すところから始められる。そうして惨劇が繰り返される。
自分が当事者として実感を伴って、戦争や軍隊、あるいは惨劇の歴史について「どうしたらよいのか」をいろいろと考えさせられる映画です。
公式ホームページ:http://www.finefilms.co.jp/saul/
予告編:https://www.youtube.com/watch?v=to6Wxa1VcEI
第88回アカデミー賞 外国映画賞ノミネート(2016年)
第73回ゴールデングローブ賞 外国語映画賞(2016年)
第68回カンヌ映画祭グランプリ(2015年)
キャスト:
ルーリグ・ゲーザ:サウル
モンナール・レベンテ:アブラハム
ユルス・レチン:ビーダーマン
トッド・シャルモン:顎鬚の男
ジョーテール・シャーンドル:医者
スタッフ
監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:クララ・ロワイエ シポシュ・ガーボル
製作:ライナ・ガーボル
音楽:メリシュ・ラースロー
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
編集:マチュー・タポニエ
製作会社:ラオコーン・フィルムグループ
配給:ファインフィルムズ
2015年 ハンガリー映画 107分
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