マルティン・ルーサー・キングJr. 牧師を、その活動の中でもっとも大きな出来事となった「セルマの行進」に焦点を当てて描いた作品である。
1965年3月7日アラバマ州セルマで、黒人の選挙権を求めデモ行進をしていた人々が、警官隊に暴力で弾圧され、多くの負傷者が出た。"血の日曜日事件"と呼ばれるようになった凄惨な《公権力による暴力》は、テレビを通じて全米に報道されていた。
この作品が描く世界は、1965年、今から50年前の世界だが、内容は少しも古くない。一つには、この映画の中に、現在の世界的問題が意識され、織り込まれているからだ。たとえば冒頭の爆破テロのシーンは、当時から今まで克服しきれずに続いている憎悪暴力を描いているが、これはまさに今、世界中で喫緊の問題とされている。
そしてもう一つには、この映画がそのような解釈と描写を仕掛けているか否かにかかわらず、今日の実際の社会が、50年前の社会状況からそれほど進歩しておらず、形を変えながら、偏見と憎悪の問題を内包し続けているからだ、とも言える。そのせいで、この映画は「50年も前の昔のこと、もう克服したこと」という安心感を、与えてはくれない。
映画で憲法の歴史とエッセンスを知ろうと思うなら、この作品は、「ど真ん中」の作品と言える。この作品の全体を貫くひとつの問題「選挙権」について、ぜひ、じっくり見てほしい。憲法上の権利はあるが、州の政策によって、実質上、その権利が使えない状態に置かれている黒人たち。州のさまざまなルールと、私的な暴力によって、黒人たちはその権利を行使できない状況に置かれ続けてきた。南北戦争の終わりに彼らが手にしたはずの約束は、そのような形で、彼らを裏切り続けていた。その怒りをまともに考えてみたとき、「非暴力に徹する」という主義を貫いた忍耐力、人間力がどれほどのものだったか、想像してみてほしい。
彼らの妥協なしの異議申し立てを受けることとなったジョンソン大統領は、態度を硬化させていく。映画は、キングと当時の大統領ジョンソンとのやり取りや、当時キングを盗聴していたCIAの記録も描きこみ、統治者の側から見た《不都合さ》《苛立たしさ》をもよく描き出している。選挙権の保障を求める彼らの声にまともに応えようとしない大統領に苛立ち、「憲法に違反している大統領を訴える!」と叫ぶキング牧師。この映画では随所に、統治者と立憲主義の問題が織り込まれている。
そして、キング牧師とその支持者たちが結束して守り続けた非暴力主義は、重要で普遍的な示唆を私たちに与えてくれる。「血の日曜日」事件で警官に警棒で殴られた負傷者たちが手当てを受けているとき、一人の黒人が「復讐してやる、銃を調達しよう」と叫ぶ。彼に別の黒人が言う。「こちらが銃を持ったところで、やつらはマシンガンを持っている。もしも銃撃に成功したとしても、やつらはもっと強大な武器を持って出直してくる。ヘリも来る。武器でやり合おうとする限り、それが現実だ。別の道を考えないとならないんだ」。
選挙権と人種的平等をめぐる戦いの中で言われたこの言葉は、この世のあらゆる闘争について、当てはまるだろう。武力によって勝とうとする限り、勝つことは永久にできない。その道を選ぶことのほうが安直な幻想であり、別の道を模索するのが、実は現実的な道なのだ。この言葉は、今、日本が直面している選択肢についても深い示唆を与えてくれる。
監督デュヴァネイは、気鋭の女性監督である。そのためか、この作品では、女性たちの勇敢さ、忍耐強さの描写が際立って印象に残る。とりわけ、オプラ・ウィンフリー演じるアニー・リー・クーパーの人物像は、見る者に感銘を与えずにはおかないだろう。キング牧師一人を英雄として描くのではなく、彼を支えた多くの人間を魅力的な《人物》として描くことによって、この映画は生き生きとした群衆のエネルギーを見る者に伝えてくれる。ただ屈せずに「歩く」という人々の意思表示が、これほどまでに力を持ちうる、という事実を、あらためて見直させてくれる作品である。
監督&脚本: エヴァ・デュヴァネイ
出演: デヴィッド・オイェロウォ、トム・ウィルキンソン、ティム・ロス、オプラ・ウィンフリー
公開 2014年・アメリカ
上映時間: 128分
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