この5月3日で、日本国憲法は、施行60年を迎えることになる。明治憲法は、1889年に公布され、翌1990年に施行されてから、1945年のポツダム宣言の受託によって実質的に効力を失ったとすれば、約55年の間「不磨の大典」として存続したことになるが、そのことと対比しても、日本国憲法はより長く存続してきたことになる。日本国憲法が、これまで一条一句も改正されることなく存続してきたのは、これを護り、活かそうとする日本国民の広範な世論があったからである。 しばしば、日本国憲法はマッカーサー総司令部に「押しつけられた」ものであるとする議論がなされてきたが、しかし、それが一方的に押しつけられたものであったならば、このように長い間存続するはずはない。事実は、占領下においても、極東委員会や総司令部から日本国憲法の再検討の機会が与えられたにもかかわらず、その必要なしとしたのは、日本政府自身であった。また、「改憲論議がタブーであった」といった議論もしばしばなされることがあるが、そのようなことは、この60年の間、全くなかった。日本が1952年に独立を回復するとともに、保守勢力の側からは、改憲論が相次いで出されてきた。1955年に自由民主党が、保守合同によって結党されたのは、まさに改憲を目指したからであった。そのような自民党などの改憲の企てを阻止してきたのは、広範な国民の改憲反対の世論であった。日本国憲法の基本原理である国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義を、多数の国民は大切に考えてきたからである。 ところが、このような日本国憲法が、いま、施行60年を迎える時期において存続の危機に立たされている。昨年秋に成立した安倍内閣は数年以内に改憲を目指すことを明言したし、事実、改憲のための手続法案(国民投票法案)が、自民党と公明党によってこの3月27日に衆議院の憲法調査特別委員会に提案され、この4月13日に衆議院を通過したのである。重大な事態といわなければならない。 この憲法改正手続法案(国民投票法案)に関しては、単なる手続法案だからいいではないかとか、国民投票を定めるのだから国民主権の立場からしても反対する必要はないではないかといった意見が、国民の間でも少なくない。しかし、私は、このような議論は、この法案の狙いと内容を誤解したものであると考える。 そもそも、いまこの時期にこのような改憲手続法案が提案された政治的な理由は何なのであろうか。いうまでもなく、現在政府与党などが企図している憲法9条の改憲を実現するためである。私は、憲法9条が戦後における日本及びアジアの平和と安全に多大な貢献を果たしてきたことを高く評価するが故に、「アジア諸国民に対する不戦の誓い」としての9条の改憲には反対であり、そうである以上は、9条改憲の実現につながるような今回の改憲手続法案には反対せざるを得ないのである。 しかも、この法案には、内容的にも時間をかけてじっくりと国民の間で検討されなければならない多くの問題点がある。まず第一に、国民投票の投票年齢について、法案は満18年以上の国民としつつも、「附則」で「国はこの法律が施行されるまでの間、満20年未満の者が国政に参加することができるよう、選挙権を有する者の年齢を定める公職選挙法、成年年齢を定める民法その他の法令の検討を加え、必要な法制上の措置を講ずるものとする」「前項の法制上の措置が講ぜられるまでの間、これらの規定中「満18年以上」とあるのは、「満20年以上」とする」としているが、このような規定は、本法案がいかに急場しのぎのものであるかを示している。国民投票の投票権者の年齢をどうするかは、公職選挙法のみならず、民法さらには刑法・少年法などにも密接に関連する基本的な法律問題である。このような基本問題に関して、慎重な検討を国民的規模で行うことをせずに、「附則」で処理するような姑息なやり方は、認めるべきではない。 第二に、この法案は、国民投票は「憲法改正案ごとに」行うとしているが、その趣旨は必ずしも明確ではない。果たして条文毎に国民投票にかけるのか、それとも一括投票も認めるのか、あるいは関連する事項毎の投票を認めるのかが不分明である。私は、憲法96条の趣旨からすれば、全面改正はできず、国民投票も条文毎の投票が必要と考えるが、このような基本問題についてこの法案は不明確なままである。 第三に、この法案は、「憲法改正案に対する賛成の投票の数が、賛成票と反対票を合計した投票総数の2分の1を超えた場合には、当該憲法改正について憲法96条1項の国民投票の承認があったものとする」と規定している。しかし、このよう規定は、憲法96条が国民投票で「過半数の賛成を必要とする」としている「過半数」の母数を有効投票総数という最も低いものとすることによって、改憲を安易に可能とするものであり、憲法の最高法規性を軽視することになりかねない。例えば韓国では、有権者の過半数が投票しなければ、改憲が成立しないという「最低投票率」制度を設けているが、日本でも少なくともそのような制度を設けることが、憲法がわざわざ国民投票を規定している趣旨からすれば、必要であろう。 第四に、この法案は、公務員や教員が「(その)地位にあるために特に国民投票運動を効果的に行い得る影響力又は便益を利用して、国民投票運動をすることができない」と規定しているが、その規制内容はきわめて漠然不明確である。このような漠然不明確な規定によって公務員や教員が国民投票運動に参加することを禁止することは、憲法21条に違反する疑いが強いといわなければならない。たしかにこの規定に関して罰則規定はなくなったが、行政上・民事上の処分を受ける可能性はあり、公務員や教員が主権者の一員として国民投票運動に参加することに対して萎縮的な作用をもたらすことは確実であろう。 第五に、この法案は、マスコミなどの報道規制の問題に関しても少なからざる問題点を含んでいる。法案は、政党などが行う有料のテレビ・ラジオCMの投票期日前14日間の禁止を規定する一方で、一般放送事業者は放送法第3条の2第1項(政治的公平性など)の趣旨に留意することを規定しているが、これは、放送の自由と放送の公平性の確保とに関わる微妙な問題を含んでいる。このような微妙な問題に関しては、広くマスコミ関係者や専門家も含めて慎重な議論がさらになされることが必要であり、法案のような規定では、放送の自由も放送の公平性の確保も共に侵されることになりかねない。 最後に、この法案によれば、国会が憲法改正の発議を行ってから60日以降180日以内に国民投票を実施するとしているが、国民に対する周知期間としてはあまりにも短いといわなければならない。民主主義は単なる多数決ではない。国民の間で十分な討議がなれれてはじめて民主主義はよく機能する。憲法改正の発議の意味内容や意図についてこの程度の期間内で国民に周知徹底させ、国民的な討議を十分に行うことはほとんど不可能といってよい。 以上のように、現在国会に上程されている憲法改正手続法案(国民投票法案)は数多くの問題点や疑問点を含んでいる。いま必要なことは、このような改憲手続法案を拙速に制定することではない。憲法改正手続法については、じっくりと時間をかけた国民的な審議に委ねるととともに、格差問題や核問題など山積する喫緊の課題に憲法を活かす形で取り組むべく最善の努力を払うことであると思われる。
◆山内敏弘(やまうち としひろ)さんのプロフィール
1940年山形県生まれ。 獨協大学教授、一橋大学教授を経て、現在、龍谷大学法科大学員教授。 法学館憲法研究所客員研究員。
【主な著書】 『平和憲法の理論』(日本評論社、1992年)、 『憲法判例 を読みなおす』(共著・日本評論社、1999年) 『有事法制を検証する』(編著 ・法律文化社、2002年) 『人権・主権・平和』(日本評論社、2003年) 『新現代憲法入門』(編著・法律文化社、2004年)