衆参両院の「憲法調査会」の活動期限も来年までということで、「改憲」へ向けての具体的な動きが、これから本格化するでしょう。そこで、この際、一つ原理的な問題を考えてみたいと思います。それは、憲法の「改正」とはどういうことなのか、ということです。 憲法学で普通に言われていることですが、憲法の「改正」とは、いまある憲法の存在を前提にして、そこで定められている手続に従って個々の条文を削除したり変更したり、あるいは追加するという行為をいいます。この「定義」には重要な「キー」が含まれています。それは、憲法の定める手続に従った変更、ということと、いまの憲法の存在を前提にした変更、ということの二点です。日本の「改憲」論議では、前の点は前提に議論されていますが、後の点はまったく無視されています。ここにじつは大きな問題があります。憲法の改正が「改正」として正当化されるためには、この二点が両方とも満足されていなければならないのです。憲法の定める改正手続に従っていればそれでいい、というものではないのです。 いまの憲法の存在を前提にした変更でなければ「改正」としては正当化されない、ということの意味は、逆の言い方をすれば、いまの憲法と全然別物になってしまうような変更は「改正」とはいえない、ということです。ですから、いまの憲法を全部変えてしまうという場合はもちろん、一部の変更であっても、憲法の基本的な原理を大きく変えるような変更は、「改正」とはいえないということになります。「改憲」論の一番の争点である9条の変更は、まさにこれにあたります。ですから、現在さまざまに提起されている「改憲」論議は、ほとんどすべてが、じつは憲法の「改正」の議論ではないのです。それは、いまの憲法を廃棄して新憲法を制定する、という議論なのです。 「改正」か「新憲法の制定」かというのは、単に観念的な言葉だけの問題ではないか、と思われるかもしれません。しかし、この区別は重要な意味をもっているのです。というのは、日本国憲法には、この憲法を廃棄して新しい憲法を制定するための手続は用意されていないからです。憲法96条は、「改正」について定めていますが、「廃棄+新憲法の制定」は予定しておりません。つまり、いまの憲法を廃棄して新憲法を制定するということは、憲法の枠内でできる行為ではない、ということです。ですから、もしもそれをしようというのなら、それにふさわしい手続を、憲法の外で、まったく新たに作り出さなければならないことになります。 現在の日本国憲法の制定権者は「国民」です。ということは、この憲法を廃棄できるのも「国民」だけということになります。したがって、いまの憲法を廃棄して新憲法を制定するためには、少なくとも「国民」の過半数がそのことに賛成しているということが、確実に確認できるのでなければなりません。具体的には、国民投票において全投票権者総数(投票総数ではない!)の過半数の賛成を得ることを、最低限の要件とすべきでしょう(「改正」ならば、憲法96条の規定に従って、投票した人の過半数の賛成があればいい、ということになります)。全投票権者総数の過半数の賛成というと、投票しない人もいるだろうし非現実的な数字ではないか、と思われるかもしれません。しかし、たとえば70%の投票率で72%の賛成なら、それで全投票権者総数の過半数になります。実際問題として考えても、いまの憲法を廃棄して新憲法を制定しようというのなら、この程度の投票率と賛成があって当然でしょう。これくらいの数字を獲得する自信がないのだったら、そんな提案はそもそもすべきではないのです。 実際には、両院の3分の2以上が「改正」だといえば、実態は「現憲法の廃棄と新憲法の制定」であっても、「改正」だとして発議されるでしょう。しかしそれは、とりもなおさず、70%の投票率で72%以上の賛成という程度の数字を獲得する自信がないことの自白です。国民に対して不誠実で、国民を欺く姑息なやり方でしかありません。憲法の基本原理を大きく変えようという提案なら、正面から堂々とそのことを明らかにして、絶対過半数を獲得すべきなのです。
◆浦部教授のプロフィール 1946年愛知県生まれ。 ・名古屋大学大学院法学研究科教授
・法学館憲法研究所主席客員研究員 ・前神戸大学副学長 ・専攻 憲法学 ・現実を直視し日本国憲法の理念を深く掘り下げ発展させる精力的な研究活動を展開している。憲法「改正」問題でも活発に発言中。
| 【主な著書】 『違憲審査の基準』(頸草書房、1985年) 『「憲法改正」批判』(共著)(労働旬報社、1994年)
『ドキュメント日本国憲法』 (共編著、日本評論社、1998年) 『全訂 憲法学教室』 (日本評論社、2001年) 『入門憲法ゼミナール』(改訂版)(実務教育出版、1999年) |
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