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1989年

 
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冷戦の終了/消費税の実施/日米構造協議始まる/昭和天皇の死去
H.T.記

T 冷戦の終了

 1989年は、第2次大戦後世界を二分していた、アメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営とソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造(冷戦)の終了を決定づけた年となりました。11月9日には東ドイツが冷戦の象徴ともいえるベルリンの壁の開放を宣言、この年から91年にかけてソ連・東欧諸国の体制が崩壊しました。その後10年間で、これらの国々は、相次いで資本主義国家となりました。この変革には国によって固有の要因もありますが、政治的無権利状態に置かれ、指令型の経済が破綻して不自由な生活を強いられた民衆の不満の存在が共通の要因として挙げられます。「ソ連型社会主義」は失敗しました。

 冷戦の終了は、欧米諸国では第一義的には人権を求める民主主義革命として理解される傾向がありました。これに対して日本では、社会主義体制の経済的不効率の問題として捉えられる傾向がありました。対比的に言えば、日本の戦後は経済開発を重視し、人権や民主主義の問題は第2次的な問題として捉えてきたことがここにも現われています。日本国内では、労働組合運動等における社会主義思想の後退や混乱、90年代における日本社会党の消滅による「55年体制」の崩壊に影響しました。その後、「新しい社会主義」の模索も行われています。

 冷戦の終焉は、世界の民衆からは概ね歓迎されました。“これで平和で民主的な時代が来る”と。確かに米ソの代理戦争はなくなりました。しかし、軍事的にはアメリカの覇権主義を抑える国がなくなりました。冷戦「秩序の解体」により民族紛争や民主化運動が世界の各地で勃発すると、ロシアや中国を含めて各国が軍事力で抑え込むことが容易になったという重大な側面があります。経済的には、アメリカ型市場主義がグローバリゼーションによって世界全体に拡大しました。軍事面と経済面は密接な関係にあります。

 冷戦の終焉は、もっと長いスパンで見ると、過去数世紀に渡って展開してきた資本主義的な世界システムから別のシステムへの移行期の始まりという位置づけもあります。近代化をパラダイムとする時代の終わりという見方と重なります(ウォーラーステイン「入門・世界システム分析」、水野和夫「人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか」)。また、普遍的な価値の保持者であることを正当化理由として覇権を目指してきたスペイン以来500年近い歴史の終わりではないか、という捉え方もあります(豊下楢彦「冷戦体制とポスト冷戦」 「戦後50年をどうみるか 上」所収)。近年のラテンアメリカにおける社会主義への道の動きも注目されます。

U 消費税の実施

 竹下登内閣によって88年末に成立した3%課税の消費税法が89年4月から施行されました。大型間接税反対の請願署名は、国会史上空前の7188万人に達しましたが、十分な審議もなく自民党単独で強行採決されました。
 当時、税制全体の見直しによって実質的には減税になるという説明は、現実とはマッチしませんでした。直間比率の見直しで税負担が公平になるという説明もなされましたが逆進性は否定できず、応能負担を内容とする納税者の権利(憲法13、14、25条、前文の「恐怖と欠乏からの自由」)の観点から強い疑問が提示されました。ヨーロッパ諸国は間接税を大幅に導入しているという説明もありました。しかし、それならば、ヨーロッパの高・中福祉国家諸国の社会保障制度や労働法制、教育法制等国家・社会の全体像を比較して日本の福祉国家のあり方をどうデザインするかという大きな議論の中で合意すべきであるという反対意見は、ほとんど考慮されませんでした。

V 日米構造協議始まる

 85年のプラザ合意以降の円高ドル安の中にあってもアメリカの対日赤字は膨らむ一方で、日米貿易摩擦が昂じていました。アメリカは、対日赤字が膨らむ要因は、日本の市場の閉鎖性(非関税障壁)にあるとして、主に日本の経済構造の改造と市場の開放を要求し協議の場を求めて来ました。これが89年7月の日米首脳会談で「日米構造問題協議」として結実しました。商習慣や流通構造などの国のあり方や文化にまで及ぶ広範な要求は200項目を超え、「ワシントン発の経済改革」とも称されました。
 90年6月のこの協議の最終報告で、アメリカは日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求しました。海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定しました。その後村山内閣は、アメリカからの要求で630兆円に積み増ししました。これは日本の財政赤字(さらに世界から嘲笑される日本の一層の土建国家化)の大きな要因となり、憲法が予定している福祉国家の建設は重大な危機に追い込まれて行きます。
  
W 昭和天皇の死去

 89年1月7日、昭和天皇が癌のため死去しました。
 前年9月、発熱が続き病状の悪化が報道されると、その月の19日以降、国民の間に広範な自粛ムードが広がりました。テレビのバラエティや歌謡番組の中止、企業の創立記念パーティー、年末の「日本歌謡大賞」中止などが自主的に行われました。テレビCMの「元気」「笑う」「おめでとう」などのキャッチフレーズは削除されるか変更されました。各地のお祭りやパレードも中止されたりして、社会全体がフリーズした観のある数ヶ月は、戦後半世紀近く経っても象徴天皇制の議論がはなはだ欠如していたことを思い知らせました。
 1月9日の平成天皇の「即位後朝見の儀」や2月の昭和天皇の「大喪の礼」が天皇の国事行為として行われたことは、政教分離の原則(20条3項)違反ではないか、大きな論議を呼びました。昭和の時代の終わりに当たって、昭和時代とはなんだったのかの本格的な議論はなされませんでした。「死者にむち打つ」戦争責任論はこれまで以上にタブー扱いされました(村田尚紀「日本国憲法史年表」)。