法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

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1977年

 
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君が代の国歌化
H.T.記

 「君が代」は、戦後の学校教育では歌われなくなりました(46年10月9日、国民学校令施行規則からの削除)。社会の中に、天皇讃歌である君が代は、新しい憲法の内容にふさわしくないという時代感覚がありました。代って、新時代に見合った国民歌の募集・作成の様々な動きがありました。毎日、読売、朝日の各新聞社も君が代を批判し、毎日と朝日は憲法の精神に基づいた新しい日本の歌を応募作品の中から選んで発表しました。これらの中で比較的広まったのは、51年に日本教職員組合が募集して作った「緑の山河」や、53年に壽屋(今のサントリー)がフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のような歌をと全国民に呼びかけて作られた「われら愛す」です。

 しかし、新しい国歌制定の民意は、「逆コース」の動きの中で封じ込められて行きました。「逆コース」の言葉が流行した51年には、吉田首相による靖国神社の公式参拝が行われました。53年には、旧内務省出身の大達茂雄氏が文相に就任し、文部省内の人事や空気が一気に「内務省化」しました。それまでは文部省も政権政党も、教育基本法に則って教育の内容には原則的に不介入の立場を採っていました。変わったのが大達文相の時代からで、教員統制、教育行政統制、学力テストなどが強行されます。天皇の元首化を含む復古的な自主憲法制定の流れの中で、「日の丸」「君が代」の復活と定着は、再び国民統合のシンボルとなることを期待されました。そのためには、学校教育で子供たちに教えるのが最も効果的であると考えられました。それゆえ、「日の丸」「君が代」は、教育問題として位置づけられた側面が濃厚です。
 58年の小中学校の学習指導要領の改訂で、「日の丸」「君が代」を義務教育として教えることが明記されました。「国民の祝日などにおいて儀式などを行う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましい」。58年の学習指導要領は、同時に「文部省告示」として法的拘束力を付与されました。「国旗」とは「日の丸」を指しました。

 この「君が代」が「国歌」として位置づけられたのが、77年の学習指導要領の改訂の際です。学習指導要領の改訂を審議する教育審議会にはこの旨の諮問はなく、審議会での議論を経ないで文部省が決定しました。「国歌」とした趣旨について、文部省の調査官は、「国歌と書いていないから歌わなくてもいいという論法があるようなので、その論争を打ち切るためにも国歌とした」と述べています。これにたいして、政府の法解釈責任者のトップである内閣法制局長官は、国会で「文部省が、あるいは文部大臣が特定の歌をわが国の国歌であると決める権限を持っていらっしゃるはずはございません」と答えています(以上、主として田中伸尚「日の丸・君が代の戦後史」に依りました)。

 その後87年には、「君が代」でいう「君」とは象徴天皇の意味である旨が国会答弁で示されています。「君が代」については、歌詞が国民主権と調和しない、軍国日本のシンボルとして機能した歌が平和国家にふさわしいのか、さらに国が特定の歌詞を教育現場に押付けることが教育の自由を侵害しないかなど、さまざまな問題が論じられています。
 
 なお、天皇制に関わるこの時期のできごととしてもう一つ重要なのは、「元号法」の制定です。日本国憲法の制定に伴い、明治国家になってからの皇室典範は廃止され、元号の制度は実定法上の根拠を失っていました。そこで、70年、自民党は元号の法制化を決定します。そのキャンペーンの一環として、78年には「元号法制化実現国民会議」が結成されました。呼びかけ人は、石田和外氏で、69年に内閣から最高裁長官に任命され、「司法の冬の時代」の主役として、憲法に従った裁判を重視する青年法律家協会に所属する裁判官を排除した人です。元号法は、天皇制の強化につながるとして反対運動が繰り広げられましたが、79年に成立し、一世一元の制度が採用されました。官公庁では元号を用いることが決められ、国民は公文書などの記載を通して間接的に元号の使用を強制されることになりました。
 元号法の成立に伴い、石田氏らは、「元号法制化実現国民会議」を「日本を守る国民会議」に改組しました。「日本を守る国民会議」は、その後「日本を守る会」と統合して「日本会議」となりました。日本会議は、天皇を元首とするなど、復古的な憲法の「改正」運動を積極的に推進する母体となっています。現会長は元最高裁長官・三好達氏です。
 政治と司法にまたがった天皇重視か、憲法重視かの論争と運動は続いています。