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法学館憲法研究所

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1968年

 
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学園紛争の季節
H.T.記

 68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛りました。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われました。

 68年に拡大した背景には、世界の青年・学生等の運動の高まりがあります。中国の文化大革命の若者のスローガンである「造反有理」、ソ連型社会主義に反発して市民が起ち上がった旧チェコスロヴァキアの「プラハの春」、そして世界各地で起きたスチューデント・パワーと呼ばれる大規模な学生運動です。 
 中でも、パリの「五月革命」は大きなインパクトを与えました。ベトナム反戦デモに関するソルボンヌ大学の管理強化に抗議する同大学の学内集会に端を発して、カルチェ・ラタンでは市街戦になりました。賃下げなどに反対する労働組合も加わり、運動はフランス全土に拡大して、最終的には政府に「参加の社会」実現を公約させ、強大だったド・ゴール政権を倒しました。ドイツでも学生を中心とする反戦運動の盛り上がりは、保守中道政権からリベラルな中道左派政権への交替のきっかけになりました。アメリカでは、学生運動の枠を超えて、ベトナム反戦運動、黒人の公民権運動、女性解放運動が連動して、リベラルな文化の基盤が拡大しました。これらの学生運動に共通するのは、従来の左派政党や労働組合による権力奪取を目的とする運動と異なり、管理しようとする既成の権力に対する新左翼的な傾向の強い「管理化されることに抵抗する民衆」としての闘争といえるでしょう(仲正昌樹「日本の現代思想」)。大衆社会化、脱工業化が進み、学生も大衆化していました。

 日本の学生が立ち上がった原因として、一人ひとりがトータルな人間として成長し発展しようと希望に燃えて進学したのに、マスプロ教育や自説を述べるだけで教育に情熱のない教員たちなどに失望したことがあります。進学率の急激な上昇に伴い、学生数は10年間で約10倍に増加したのに、大学側の教学改革は遅れていました。また、大衆化した大学生にとって、高い学費は重い負担となりました。教育を受ける権利(26条)の保障の不備です。
 また、当時、ベトナム戦争を戦うアメリカと日本政府に対する激しい怒りや、70年に迎える安保条約自動延長への反対も盛んでした。
 さらに、本来民主主義国家をリードする役割を期待されれるべき大学に残存していた古風な権威主義があります。学生の団体結成や印刷物の自由な発行を認めない日本大学における学園民主化闘争、医学部の医局の徒弟制度に端を発し、集会・デモの自由などが問題になった(行政法ないし憲法でいう「特別権力関係」)東大の大学自治を担う主体の拡大を求める闘争などが広がりました。

 学生らの不満は、教員に対する不信、さらには、「戦後民主主義」や「近代」自体という既存の社会秩序に向けられ、近代の知性を代表する存在だった丸山真男教授らも激しく批判されました。

 学生間の温度差は大きいものがありますが、高度経済成長による物質的豊かさの追求の波に飲み込まれることを容認する自己を「解体」し、そのことを通じて自己実現したいという願望が底流にありました。各クラスで活発な討論がなされました。その結果、ストライキが多発しました。方法論をめぐっては各セクトの間で激しい議論があり、バリケードの構築、大学封鎖も行われ、「大学解体」さえ叫ばれました。また、率先して「国家権力」に暴力的な攻撃をしかける街頭行動主義と、個々の行動の政治的な意味を考慮することよりも「異議申し立て」自体に力点を置いた政治的象徴主義の傾向が目立ちました(小阪修平「思想としての全共闘世代」)。

 紛争の結果、一般的には大学の民主化、教学の一定の改善がみられました。それを受けて、70年代は大学による自主改革と官僚統制の拮抗期に入りました(天野和夫「戦後50年をどうみるか・下」)。

 しかし、多くの問題も残しました。学生と教職員のそれぞれの間が多数の各派に分裂したことは、肝腎の大学の自治(憲法23条)の担い手の拡大の未達成、大学の管理を強めようとする政府への対抗力の劣化を招きました。また、多くの学生が暴力行為を繰り返し、建物を占拠したことは、機動隊の学内導入という大学の自治の破壊を惹起しました。
 大学紛争の頃から勃興したポスト・モダンの思想は新しい社会構想や希望を誕生させたのかも問われています。

 社会との連携を欠いたまま「革命」が主張され、暴力も容認・行使されたことは、一般の市民にとっては理解できないことであり、学生たちは孤立し、社会や文化の変革につながりませんでした。欧米と異なるところです。そもそも、憲法でいう「平和」とは、「非暴力」を意味するのではないか(前文)、厳しく問われました。

 但し、暴力化は、政治権力が誘導した側面がありました。大学紛争で多数の学生が起訴され有罪になる中、リーダーだった学生の起訴が取り下げられたこともあります。彼が当局と通じていたことを知ったある学生は自殺しました。68年10月21日の国際反戦デーでは、新宿駅の騒動に騒乱罪が適用されました。適用のきっかけになった駅構内の放火に関しては、学生や群集以外の異様なグループの存在が示唆されました。

 今、一つの時代の主役である団塊の世代は、多くは企業戦士としての勤めを終えて、続々と定年を迎えています。これから長い余生をどう過ごすか、話題になっています。