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1956年

 
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「もはや戦後ではない」/「国連加盟」
H.T.記

T「もはや戦後ではない」

 1956年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になりました。それは、最もよく経済水準を示す指標である1人当りの実質国民総生産(GNP)が、55年に戦前の水準を超えたという意味です。55年は、高度経済成長の始まりとなった神武景気の幕開けの年でもありました。56年には、家電を中心とする耐久消費財ブームが開始し、皇室の三種の神器にちなんで、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と言われました。但し、これらは庶民にはまだ高嶺の花であり、当時大人気だったプロレスラーの力道山を見るために、人々は街頭のテレビに群がりました。もっとも、この年すでにテレビ文化を称して「一億総白痴化」(大宅壮一)も流行語になったことは注目されます。

 ここで比較されている「戦前」とは、1934年〜36年平均を言います。故に、日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたことになります。
 20年は長過ぎたという側面があります。大きな原因として、日本が行った戦争は自国民の人命を軽視し、基礎的な生活条件を破壊したという特徴が考えられます。ナチス・ドイツでさえ敗戦の瀬戸際まで開戦時の消費水準を保ったのと対照的です。日本は徹底して生活を切り詰めさせ、戦略爆撃が始まり敗戦必至になってからも天皇制の維持を事実上約束させるまで戦い続けて住宅も約210万戸失いました。敗戦後、アメリカ政府・GHQは、日本の経済再建に関しては当初「ハード・ピース」路線、すなわち、日本から近代工業施設を撤去し、外国貿易も遮断して農業国にするという方針を採っていました。トルーマン大統領の個人的代表として来日した日本派遣賠償視察団E・ポーレー大使は、「われわれは日本経済の最低限度を維持するに必要でないすべての物を日本から取り除く方針である」と言明しました。日本政府は、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する傾斜生産方式等を採用し経済の再建に努めましたが、インフレの昂進や技術の立ち遅れなどでなかなか成果は上がりませんでした。

 他方、焼跡の廃墟に住み飢餓に苦しんだ人々が、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったという側面もあります。事態が転換し始めたのは冷戦の激化がきっかけでした。1949年の箇所でも触れましたが、48年のアメリカのロイヤル陸軍長官の文書などに示されるように、対日方針は転換されました。経済面では、工業を発展させることによって経済を再建し日本を反共の防波堤にする「ソフト・ピース」路線に変更されました。その一環として、戦争による実物賠償は棚上げされました。さらに、50年6月に勃発した朝鮮戦争が情勢を一変させました。緊縮財政であるドッジ・ラインの下で需要不足に悩む経済は、朝鮮半島に出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負い(朝鮮特需)、日本経済は大幅に拡大されました。また、51年のサンフランシスコ条約の締結に伴い、東南アジアの国々が日本に要求した損害賠償がアメリカの圧力で大幅に減額され、あるいは日本企業の新たな利益獲得の準備の視点で実行されたことも日本にとっては好都合でした。但し、技術革新などにより経済の自立を目指す日本国民の努力と、所得分配の相対的な平等化の進行による購買力の増大があったことは重要です。平等化の進行は、総力戦の遂行の観点から国民の協力を得るために必要だったこと、敗戦後の激しいインフレ、GHQによる民主化政策等の結果です。

 「もはや戦後ではない」生活は、朝鮮の人々の悲劇、戦後の賠償もきちんとしない東南アジアの人々の貧しいままの生活、さらには、沖縄の人々の生活等の犠牲の上に乗っていたことは忘れられがちです。日本国憲法の視点から見つめ直す必要がありそうです。


U 国連加盟

 日本は、憲法制定直後は、憲法前文が予定しているとおり、国連を通じて日本の安全保障を実現するべく、国連への加盟を考えていました。しかし、1951年、西側諸国とのみ講和するとともに、安全保障はアメリカに依拠する決断をしました。反面、ソ連や中国との対決関係は固定化されました。

 とは言っても、独立を回復した日本にとって、国連への加盟は外交的な悲願でした。これには日本との戦争状態がそのままになっているソ連が拒否権を行使していました。そこで、アメリカとの関係のみを重視した吉田首相に代わった鳩山首相は、日ソ国交回復を急ぎ、北方領土問題と日ソ平和条約の締結を棚上げしたまま56年10月に「日ソ共同宣言」に調印、日ソの戦争状態は終了しました。これにより国連加盟の障害は取り除かれ、翌12月、日本の国連加盟が実現しました。