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箕面忠魂碑訴訟
Y.M.記

 「忠魂碑」という文字が刻まれた石碑を目にすることがあります。忠魂碑とは、元々戦没者の霊を慰霊・顕彰するために町や村で建立された石碑をいいます。その歴史は、明治時代の戊辰戦争までさかのぼることができますが、その後の日清・日露戦争以降に全国的に広まりました。また、かつての軍国主義の下では、軍事教育の一環として学校の敷地内に建立されたものも多くあったといいます。箕面忠魂碑訴訟は、学校の敷地となる場所にあった忠魂碑の移転と、その忠魂碑前で行われた慰霊祭に対する自治体の関与が政教分離違反として争われたケースです。

 大阪府箕面市の箕面小学校では、生徒数の急増や校舎の老朽化によって校舎の増改築工事や校庭の拡張をすることが急務となりました。ところが、これらを行うためには、同小学校の用地に隣接していた土地の明け渡しを受ける必要がありましたが、そこに問題となる忠魂碑が建立されていたのです。箕面市は、この忠魂碑を管理維持していた地元遺族会に対し、忠魂碑の移転用地を取得して移設することと、その敷地を無償で貸与することを約束します。
 他方、地元遺族会は、毎年この忠魂碑の前で神社神職または僧侶の主宰の下に、神式・仏式隔年交替でそれぞれの儀式のやり方で慰霊祭を行っていました。そして、1976年と1977年の慰霊祭には、市教育長が参列して玉串奉納や焼香を行い、また市職員や公費が用いられ慰霊祭の準備が行われたのです。
 これに対し、箕面市の住民は、これらの事実がそれぞれ日本国憲法20条及び89条の政教分離原則に反するとして2つの住民訴訟を提起したのでした。

 大阪地裁は、1982年3月24日、まず前者について、忠魂碑の宗教的性質を認め、箕面市によるその移設と敷地の無償貸与が政教分離に反するとしました。また、1983年3月1日、後者についても、市教育長の慰霊祭への参列は公務とはいえず、その時間分の給与は不当利得となり返還義務を負うとしたのでした。これに対し、これらの事件を併合審理した大阪高裁は、1987年7月16日、忠魂碑の宗教的性質を否定し、遺族会の「宗教団体」としての性格を否定すると共に市教育長の慰霊祭参列は社会的儀礼の範囲を出るものではないとして、政教分離違反を主張する住民らの訴えを退けたのです。

 1993年2月16日、住民らの上告を受けた最高裁は、箕面市による忠魂碑移設並びに地元遺族会への敷地無償貸与と市教育長による慰霊祭参列のいずれについても、憲法の政教分離原則に反するものではないとして、上告を棄却しました。それを判断する際に最高裁が用いた基準が、いわゆる「目的・効果基準」と呼ばれるものです。これは、問題となっている公権力の行為の目的が宗教的なものであるかどうか、そしてその効果が特定の宗教を援助、助長、促進あるいは圧迫、干渉するものかどうかによって、その行為が政教分離原則に反するかどうかを判断する、という基準です(憲法MAP愛媛編・愛媛玉串料訴訟も参照)。しかしながら、この基準は、用いられ方次第では、公権力と宗教とのかかわりを緩やかに認めてしまいかねない余地を残しており、現に本件ではそれが現実のものになってしまった感は否めません。確かに遺族会は「宗教団体」ではないにしても、それが管理維持する忠魂碑や、またそれが執り行う宗教的な行事について公的な財政援助を行うことの実質的な意味を厳密に検討することが、本件においては問われるべきことだったように思われます。

<投稿> 「平和力」と忠魂碑〜いまも対峙しつづける

神坂玲子(大阪府箕面市在住・元箕面忠魂碑違憲訴訟原告団)

 戦争は美化され、正当化され「聖戦」となる。私の体験した15年戦争下、忠魂碑は、町や村のいわば「靖国神社」であった。即ち、戦死者を「天皇のため国のために忠義を尽くした」と讃え、「この人たちにつづけ!」と鼓舞する碑であり、同時に「宗教施設」であった。戦争は限りなく「宗教」を必要とした。天皇は「現人神」、日本は「神国」に、戦死者は「靖国の神」とされた。

 戦後、新憲法は戦争の偽瞞と決別するため「主権在民、基本的人権の尊重、平和主義」を掲げ、「政教分離の原則」を定めた。
 これに先立ち、日本を占領した連合国軍総司令部はいち早く国家神道を解体するため「神道指令」を発した。靖国神社は国家的施設から一宗教法人になり、忠魂碑は全国的に倒されていった。
 しかし、日本が講和条約によって「独立」していく中で、靖国神社の国家護持につながる動きや、忠魂碑の復活が見られることとなった。
 土に埋められていたこの忠魂碑も箕面小学校校庭に建て直された。登記上は「学校の隣接地」であっても、まぎれもなく「校庭」であり、玉垣の中には卒業記念植樹も配されて、「忠魂碑神社」の雰囲気であった。
 それが学校の施設拡張のため、そっくりそのまま西小学校正門の道路を隔てた市の土地に移設されてくることとなり、私たちの反対運動が始まった。西小学校は私たちの子どもが通っている学校でもあった。
 私たちの反対にもかかわらず碑は間もなく移設再建され、私たちは箕面市長らを相手どり、’76年、碑の撤去と敷地の市への返還を求めて提訴した。そして関連訴訟を含めそれからの四半世紀をたたかうこととなった。
 ’82の大阪地裁による全面勝訴にもかかわらず忠魂碑は今も西小学校正門前に建つ。私たち裁判の目に見える成果は、’82年勝訴以後当忠魂碑による慰霊祭は行われなくなったことだ。
 ところで忠魂碑の「お守り」役を任じている当地遺族会は、今はコミセンなどで行っている慰霊祭に当忠魂碑の拓本を掲げるという執着ぶりである。
 今、私の廻りでは平和条例制定や住基ネット反対などの運動があるが、その中にいても私はそれら「平和の力」と忠魂碑の関係に思いが及ぶ。忠魂碑はいまも私と対峙しつづける。