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無名の人々の憲法
2010年4月5日
石埼学さん(龍谷大学法務研究科教授)
 

 リーダーシップの執れる人、芸術とか学芸とかスポーツとかの才能に恵まれた人或いは人を笑わせることが上手な人・・・。才能や個性がもてはやされる時代です。私は、そうした適性・才能・個性を輝かせて活躍する人たちの、その人並み外れた努力に―ちょっとの嫉妬と―尊敬の念を抱きます。人生をかけて打ち込める仕事や趣味があって、しかもその道で成功するというのは素晴らしいことでしょう。
  しかし、多くの人々の現実の人生はそうではありません。何をしてもうまくはいかずに自暴自棄になったり、有形無形の暴力に満ちた人間関係のなかで過ごしたり、あるいは貧困のなかで生きる術を失ったりするものです。一時的にせよ、そういう苦しみの時期を過ごしたこともあるという人のほうがむしろ多いのではないでしょうか。
  いつの時代もどの国でも、圧倒的多数の人々は、特筆すべき業績も残さずに、生まれて、生きて、死んでいったことさえ忘れ去られるような人生を送るものです。それどころか、生きている間にも、「何のために私は生まれてきたのだろうか」と思い悩み、あるいは「どうせ私なんか生きていても死んでしまってもどうでもいいような存在」だと自分を卑下して生きている人も大勢いると思います。
  だけれども、人権保障や国民主権の原理に立脚した近代憲法とは、そうした無名の人々が、政治や社会を創っていく仕組みなのです。人権は、もちろん何らかの能力に長けた個人の自由も保障しますが、とくに秀でたところのない個人の自由をこそ保障するルールです。国民主権は、あの匿名の一票が示すように、微々たる力しかない一人の個人であっても、その意思さえあれば政治に参画することを可能にする原理です。
  すべての人が個人として尊重されるべきであるという基本理念に基づいている日本国憲法は、そういう近代憲法のひとつとして、何の適性も才能も個性もなくとも、夢も希望も打ち砕かれた個人でも、文字通りに誰でもが、生まれてから死んでいくまでの一回限りの人生を、自分のものとして生きていくことを保障しています。さらに日本国憲法は、近代憲法を一歩進めて、人々が、それぞれに安心して自由に生きるための条件である「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)をも保障し(憲法二五条)、さらに「平和のうちに生存する権利」を保障し、そのために戦争も軍備も放棄しています。それらも、究極的には個人を尊重するという原理から派生するものです。
  おそらく、才覚に恵まれた人たちは、運不運はあるでしょうが、こういう憲法がなくとも、人並みはずれた強靭な心身で自分の人生を生き抜いていきます。個性を輝かせる人も、どんな時代でもどんなところでも、逆境を乗り越えて、多くの人の称賛に値する足跡を残します。それは尊敬に値することです。しかしその人たちのことは、冨とか勲章とか記念碑とか伝記とかに任せておけばよいのです。無名の人々の、ちっぽけな人生には、人権と民主主義と平和とを保障した憲法が必要なのです。人権保障がなければ、無名の人々は、力のある人々に支配されてしまい、自由に安心して暮らせません。国民主権がなければ、無名の人々の意見は顧みられません。日本国憲法九条も、無名の人々の立場から理解しておくべきでしょう。つまり才能や個性のある人が犠牲になるから戦争を放棄したのではなく、どんな人であれ、尊重されるべき個人が、国家とか民族とかその他の大義名分のために死ぬ必要はないから戦争を放棄したのだと。
  ひとり一人の人生は、一回限りで短いものです。何か他のことや他人のための犠牲になることはないのです。ひとつの罠があります。短い人生だからこそ有意義に―たとえば国家のために―使うべきだという誘惑です。そのことによって自分が生きた証が得られると誘うのです。しかし、その誘惑に負けると、一回限りの短い人生を、他の何ものかのために捧げてしまうという本末転倒なことになります。他の何もののためでもない個人として生きるには、無名の人生を生きることに満足するのがよいのかもしれません。