ある火曜日の昼下がり、Y教授の研究室を1人の学生が訪れた。
学生X「先日、裁判官の弾劾裁判の初公判が9年ぶりに行われたというニュースを目にしました。弾劾制度について詳しく教えてください。」
Y教授「わかりました。そもそも弾劾制度とは、民主主義の発現形態の1つとして、国家枢要の地位にある者が非行を犯した場合に、国民的基盤に立って問責し、その地位から排除する特別な手続のことであって……」
X「先生、もっとわかりやすく説明してください。」
Y「民主主義の国家において、公権力を行使する公務員は、常に、国民の信頼に応えなければなりません。にもかかわらず、公務員が、国民の信頼を著しく裏切るようなことをした場合に、国民の意思に基づき、その者の身分を剥奪するというのが、弾劾制度です。」
X「弾劾制度には、どのような歴史があるのですか?」
Y「歴史をたどれば、古代ギリシアのエイサンゲリアという民衆裁判に行きつきます。民主政治の転覆、国への裏切り、収賄などがあった場合、市民はだれでもそれを告発することができ、訴追された人は、いかに高い身分の人であっても、民会や民衆裁判所によって裁判され、有罪であれば原則として死刑となりました。それが中世の英国に伝わり、14世紀末ごろには、議会の下院が訴追し上院が裁判するという、今日の弾劾制度の原型が確立しました。さらに、英国の制度は、刑事裁判と分化されて、その植民地アメリカに受け継がれました。弾劾制度は、英国では、司法裁判所による裁判や議院内閣制が確立するとともに、19世紀初頭には、すっかりすたれてしまいましたが、アメリカ合衆国では、現在でも、重要な憲法上の制度として位置付けられています。」
X「ニュースで見たので、アメリカの弾劾制度のことは知っています。トランプ前大統領が、2019年12月から翌年2月までと、2021年1月から2月までの2回、連邦議会の下院によって弾劾訴追され、上院によって弾劾裁判が行われましたよね。」
Y「そのとおりです。たしかに、米国では、弾劾といえば、大統領を議会が統制するための制度として非常に注目されています。しかし、約250年の歴史の中で、これまでに3人の大統領に対して4回の弾劾裁判が行われましたが、実は、罷免された大統領は1人もいません。その一方で、連邦裁判所の裁判官は、これまでに15人が弾劾訴追され、そのうち8人が罷免されています。まさに、米国の弾劾制度は、実際には裁判官を罷免するための制度として機能しているといえるでしょう。」
X「日本の弾劾制度はどのような制度ですか?」
Y「日本の弾劾制度は、以前にある論文で書いたとおり、米国由来のものですが、日本の制度の最大の特徴は、弾劾の対象が裁判官に限定されていることです。ところで、裁判官弾劾制度は、日本国憲法の何条で規定されていますか?」
X「(かばんの中から取り出した六法をめくりながら)64条と78条に弾劾に関する規定があります。」
Y「そうですね。64条は、弾劾裁判所の設置権と弾劾に関する事項の法律制定権を、国会に認めています。また、78条は、職務不能の裁判または弾劾裁判によらなければ、裁判官が罷免されない旨を規定しています。では、弾劾に関する憲法上の根拠は、それだけですか?」
X「えーと、弾劾という言葉は、憲法上、64条と78条にしか見当たらないのですが……。」
Y「たしかに弾劾という言葉は、その2か条にしか登場しませんが、弾劾制度の本質を考えるうえで、決して見落としてはならない条文があります。それが、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定める15条1項です。弾劾制度とは、実は、この国民の公務員選定罷免権を具体化したものなのです。代議制の民主主義を基本とする日本国憲法の下で、私たちは国会議員を選出し、国会議員は国民の代表として活動します。この代議制を前提とすれば、国会が弾劾裁判所を設置し、国会議員が弾劾裁判を行うということは、国民自身が弾劾裁判を行っているということと、理論的には同一視することができます。つまり、私たち国民が、国会議員を通じて、非行を犯した裁判官をその地位にとどめるべきか否かについて、国民的基盤に立って判断するのが裁判官弾劾制度なのです。」
X「そうなんですね。弾劾制度は、単に国会議員が裁判官をクビにするという、自分たちとは全然関係ないことだと思っていました。」
Y「弾劾制度には、立法府からの司法府への権力抑制の手段という意味だけではなく、国民の公務員選定罷免権の具体化という、より本質的な意味があることを忘れてはなりません。したがって、国民の代表である国会議員が、弾劾に関する権能を適正に行使しているかどうか、私たち国民は注視する必要があります。」
X「ところで、弾劾裁判は具体的にどのように行われるのですか?」
Y「特定の裁判官につき裁判官弾劾法 2条に定める弾劾罷免事由があると考えられる場合には、日本国民であればだれでも、衆参両議院から各10人、計20人の国会議員からなる裁判官訴追委員会に対して、訴追請求を行うことができます。また、最高裁判所も訴追請求を行うことができますし、訴追委員会自らが職権で立件することもできます。調査の結果、訴追委員会がその裁判官に罷免事由があると考えた場合には、両議院から各7人、計14人の国会議員からなる裁判官弾劾裁判所に対して、罷免の訴追をします。そして、弾劾裁判所は、審理の結果、訴追された裁判官が職務上の義務に著しく違反し、または職務を甚だしく怠った、あるいはその他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったと判断すれば、その裁判官に対して罷免の判決を行います。」
X「罷免判決を受けた裁判官は、どうなるのですか。」
Y「罷免、すなわち、裁判官としての地位を失います。」
X「それだけですか。」
Y「裁判官弾劾法に規定されている罷免の裁判の効果は、それだけです。もっとも、裁判官弾劾法には規定されていませんが、ほかの法律によって、例えば、再び裁判官に任命されなくなり、検察官に任命されなくなり、弁護士になる資格を失うようになり、あるいはその他の法律関連の業務に就くことができなくなる(裁判所法46条2号、検察庁法20条2号、弁護士法7条2号等)ほか、退職手当や年金の支給も制限されます(国家公務員退職手当法12条1項1号、国家公務員共済組合法97条1項等)。」
X「それでは、ひとたび罷免判決を受けた裁判官は、どんなに優秀な人であっても、永久に法律関係の仕事に関わることができなくなるのですか。」
Y「そんなことはありません。罷免判決が誤りであることが後に判明した場合や、罷免された元裁判官が5年以上の時間をかけて十分に反省した場合には、裁判官弾劾裁判所は、罷免判決によって失われた資格を回復させることができます。実際に、これまで罷免判決を受けた元裁判官の中には、十分に反省していることが認められ、弁護士として活動している人もいます。」
X「罷免判決を受けても、失った資格が回復する制度があるなんて、知りませんでした。ところで、弾劾裁判はこれまでに何件行われたのですか?」
Y「現時点(2022年5月)で裁判官弾劾裁判所に罷免訴追事件が1件係属していますが、それを除くと、これまでに、8人の裁判官に対して9件の弾劾裁判が行われ、そのうち7件で罷免判決が出されています。」
X「彼らは、どんなことをしたのですか?」
Y「詳しくは、裁判官弾劾裁判所のホームページに載っていますが、例えば、事件関係者への捜査情報の漏えい、不適切な令状事務、担当事件の関係者からの便宜の供与、私人間の紛争への介入、政治的謀略への関与、性犯罪などをした裁判官が罷免されました。訴追されたものの不罷免の判決がなされた2件は、終戦直後のヤミ取引に関与したものであり、戦後の混乱期という特殊な時代背景をもつものです。」
X「意外と少ないのですね。弾劾裁判がたくさん行われるようになるといいですね。」
Y「いいえ、私は、そう思いません。弾劾裁判は、制度としては重要ですが、あまり頻繁に行われることを、個人的には望んでいません。そもそも、裁判官の非行などというものは、少ないほうがよいでしょう。それに、そもそも弾劾裁判権というものは、慎重に行使されなければならないのですよ。」
X「なぜですか。問題を起こした裁判官なんて、どんどんクビになればいいじゃないですか。」
Y「裁判が公正に行われ人権保障が確保されるためには、裁判所において裁判官が外部から圧力や干渉を受けずに、公正無私の立場で裁判を行う必要があります。そこで、司法権の独立ということが憲法上、重要になります。このような観点からいえば、以前にある論文で書いたとおり、弾劾裁判は、時として司法権の独立への政治的な脅威として濫用されるおそれがあるということを看過してはなりません。」
X「だからこそ、私たち国民が、弾劾裁判権が適正に行使されているかどうかを、注視しなければならないのですよね?」
Y「そのとおりです。裁判官は、国民から信頼されているからこそ、その職権を行使することが憲法上、正当なものとして認められます。本来、優れた人権感覚と識見を備えているはずの裁判官が、誤って国民の尊敬と信頼に背いた行動をしてしまった場合には、残念ながら裁判官としての地位にとどめておくことはできません。そのためにあるのが、裁判官弾劾制度です。ちなみに、通常の職務上の義務違反や職務怠慢、品位を辱める行状をした裁判官に対する懲戒制度は、弾劾制度とは別に設けられており、裁判所内部において、規律の維持・裁判官の身分統制という観点から行われています(裁判所法49条、裁判官分限法2条)。」
X「ところで、先生はなぜ弾劾制度に関心をもっているのですか。」
Y「私は、もともと民主主義の原理論に関心があるのですが、憲法学の観点から民主主義を考えるにあたって、弾劾制度を取り上げてみようと思いつき、大学院の修士論文では、弾劾制度の日米比較を行いました。その後、博士論文では、国民の司法参加という別のテーマに取り組んだのですが、今でも、弾劾制度に関する論文を継続的に発表しています。弾劾制度は、憲法学の論点の中でも、かなりマイナーなものなので、これを主たる研究テーマの1つとして位置付けている現役の憲法学者は、日本でも片手で数えるほどしかいません。しかしながら、弾劾制度は、国民主権、権力分立、司法権の独立などに関連する、きわめて重要な憲法学の研究課題の1つであると、私は考えています。」
X「わたしも、弾劾制度について、もっと勉強したくなりました!」
Y「(左腕の時計を見ながら)おっと、そろそろお昼休みも終わりですね。そろそろ教室に行かなければならないので、今日は、ここまでにしておきましょう。続きの話は、また別の機会に。」
◆柳瀬 昇(やなせ のぼる)さんのプロフィール
日本大学法学部教授。専門は憲法学。慶應義塾大学法学部卒業、同大学大学院法学研究科修士課程修了、同大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程単位取得退学。博士(政策・メディア)。
著書に、『裁判員制度の立法学―討議民主主義理論に基づく国民の司法参加の意義の再構成』(日本評論社、2009年)、『熟慮と討議の民主主義理論―直接民主制は代議制を乗り越えられるか』(ミネルヴァ書房、2015年)など。