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今週の一言
人権外交の隘路
2022年2月7日

遠藤 乾さん(北海道大学公共政策大学院長)


 近年、権威主義体制の下で人権が著しく侵害され、問題となっている。中国のウイグル、香港で抑圧が深まっただけでなく、ミャンマーなどで自由や民主政が大きく棄損されたのは、皆の記憶に新しい。欧米諸国の議会において、ウイグルで起きている「ジェノサイド」を非難する決議が相次いだ。日本では、人権担当の総理補佐官が新設され、国会での決議を求める声も後を絶たない。北京オリンピックへの政府代表の派遣をめぐって各国の対応は分かれたが、そこでも同じ人権侵害が問われた。ここで再浮上しているのは、人権を基軸に国際関係を考える、ひろく人権外交と呼ばれる主題にほかならない。
 けれども、この人権外交は言うは易し、行うに難しである。言うまでもなく、人権というのは普遍的な権利ないし価値である。しかし、その内実を詰めはじめると、途端に迷路にはまる。「普遍」「権利」「価値」それぞれの意味についても、そう明白なものでもない。
 人権の理念においては、人が人である限り、それが誰であれ保障されるべきものと観念される。自身のだけでなく、赤の他人の人権が阻害されているときでも、普遍的な権利である以上、それは問題とならねばならない。けれども、普遍的であるはずのその問題を担い、緩和や解決に向けて力を尽くすべき主体がどこにいて、どこまで何をすべきか、この崇高な理念は多くを語らない。
 普遍的であるはずの人権の理念に対して、おそらく本来的にその担い手は限定されている。中国やミャンマーのなかにも、人権を侵害する主体がいる一方、それを真剣に受け止め、そのために戦うファイターはいる。しかし、こと国レベルでいうと、その担い手は、北米や西欧の諸国のような、たいがい一部の特殊な国や勢力に限られる。
 この普遍的な理念と特殊な担い手との対比が、現在の世界を理解するカギとなる。ここで人権の理念は、国際政治の基本原理である主権国家システムと出会うことになる。このシステムでは、内政不干渉の原則がうたわれ、領域的に区切られたなかでそれぞれの国がそれぞれの内情に沿う形で権利を保全する役割を負うことになっている。
 その含意は、人権侵害を現に行っている国に自己正当化の理由を与えるにとどまらない。担い手の方からの負担意識が出てくることになる。みずから他国の人権侵害を正そうと身を乗り出す国や勢力にとって、なぜ全員参加で人権を守ろうとしないのかと、慎重な国や勢力への不満が渦巻く。総じて人権の理念は、なぜ特定のその主体が時間とエネルギーをそこに投じねばならないのか、なぜ他はそうしないのか、理由を提供してはくれないのだ。
 それどころか、越境的に正しさを押しつけるかのように映る介入行為に批判が寄せられる。人権外交の担い手は、主権国家システムの原理に基づく―その意味で正当な―批判のコストをも背負わなければならない。
 ある主体が、そうした批判に耐えて、特定国の人権侵害に対処すべく決意したとしよう。公然とした非難から要人の入国停止・口座差し止め、国際イベントのボイコット、はては経済制裁から空爆、軍事侵攻まで、多様な介入メニューが机上に用意されている。近年のウイグルのジェノサイド認定、香港・ウイグル要人(関係者)への制裁、北京オリンピックへの政府代表派遣取りやめは、その一例にすぎない。かつては、南アフリカのアパルトヘイトに対する経済制裁、セルビアへの空爆、あるいはベトナムによるポルポト政権下のカンボジア侵攻など、人権や人道を理由とした介入もなされた。その制裁手段がハードなものになるに従い、批判は高まる。
 仮にその介入が成功裏に終わっても、人権侵害が世界各地でなされる以上、今度は恣意性の批判にさらされる。つまり、当該国の人権侵害が緩和・休止したとしても、今度は、なぜその特定国の人権侵害だけが問題視されたのか、異なる角度から責められることになる。これもまた、主権国家システムの原理と関わる。というのも、人権保全に全員参加が見込めず、担い手が限定的で、特定国に偏る以上、その特定国の利害と介入とは不可避的に結びつくからである。その場合でいう利害は幅広く、地政学的な勢力分布、経済・資源的な権益はもちろん、文化的な親近性、移民の存在(感)、メディア報道の在り方など、多くの要因がかかわろう。米クリントン政権時に行われたNATOによるセルビアへの空爆は、CNN等のテレビ報道がサラエボ青空市場での残虐な殺戮を報道し、無策への批判が高まった直後に行われた。そうしたパロキアルな(狭い)文脈で人権外交や介入がなされるとき、もちろんそれは体系的な人権侵害への対処からはかけ離れたものとなり、恣意的だと断ぜられることになる。
 現在、主たる焦点となっている中国の人権侵害もいまに始まった話ではなく、大躍進や文化大革命の際には、口に出すのもおぞましいような殺戮や暴行が相次いだ。改革開放を進めた鄧小平氏は、天安門事件のときに鎮圧を命じた指導者でもある。習近平指導部になってからの抑圧の深化は目を覆うべくもないが、江沢民・胡錦濤政権のときも十分に強圧的であった。そうした歴代の人権侵害を、米国は冷戦時代、そしてその後も十分には問題視せず、長らく主敵たるソ連の人権侵害を指摘し続けた。
 その恣意性批判は、地理的にまだらであるというだけにとどまらない。理念的にも、人権の中身について合意があるわけではなく、具体的にどういった人権侵害なら介入の対象になるのか、これもまた論争的であり続けている。長らく中国は、人権とは10億を超える民を食べさせることに他ならないと言って憚らなかった。貧困が撲滅されたと宣言された今も、生活こそが人権だとする声は後をたたない。その立場からすると、宗教や言語、広く文化的な権利は、言ってみれば贅沢な付加価値に過ぎず、政治的権利もまた、十分に生活できるようになってからの追加的な権利と看做されよう。そうした権利の階層性イメージは、文化や政治に関する権利の侵害を正当化してきた。これはイデオロギーであり、生活の権利ゆえに文化的な集団を抹殺したり、政治的な参加の道を閉ざしたり、自由な意見の表出を妨げたりといった行為が許されるわけではないのだが、途上国に根強く残る発展への希求の強さは同時に忘れてはならない。
 さらに、文化・宗教的な抑圧や政治的な弾圧自体が許しがたい人権侵害だと認めたのちも、それと他の価値との優劣、優先順位が問題となる。例えば、平和、共存、(自由貿易による)互恵、環境保全などはそれにあたる。隣国の人権侵害を理由に外交関係を損ね、核・ミサイル実験や領海侵入などが頻発し、お互いの世論が対立した挙句、ボイコットや焼き討ちなどが頻発して貿易や投資が滞り、しまいには領土・武力紛争に至るというシナリオは、非現実的なものでもない。そんな局面やシナリオを前に、他国の中の人権をどこまで追求すべきか、施政者や外交官のみならず経済界や市井の多くが当然躊躇を覚えるだろう。
 それでは、難しい主題だから何もすべきではないということなのかというと、それはまた異なる。大事なのは、やるべきこととやってはいけないことを見極めることである。例えば、他国の人権を問題にしながら、武力で他国を攻撃し、その国の人々を傷つけるのは、いかにも比例性の原理から外れ、過剰な対処となる。経済制裁が対象国の政策決定者や支配層ではなく、国民の生命や健康により響くような場合にも、慎重さが求められよう。
 同時に、自国民を自国の軍隊が殺戮するような異常事態を前にして、それを承認するような行為は決して行ってはならない。日本がミャンマーにしていることは、それに限りなく近い。他国の共同非難決議には加わらず、軍部とのパイプを誇り、そことのやり取りを続ける。新規ODAや支払いは凍結したが、その存続を図ろうとする意思が垣間見える。現地の日系経済界は、私的な場では人権侵害の実態より政治的安定の方が大事だと打ち明ける。これらは、血塗られた軍部に大したことにはならないと安心感を与える。
 日本政府はミャンマーを追い詰めれば、中国寄りになると怖れる。実際、欧州諸国が制裁したカンボジアはすっかり中国色にそまった。しかしそれだけではあるまい。日本の援助のなかで日本企業がミャンマー軍部とのあいだにつちかった権益を前に身動きが取れなくなっているようだ。軍部は産業コングロマリットでもあり、日本の援助の一大受益者である。幹部は個人的な利益を得てもいる。日本ミャンマー協会の会長は、渡邉秀央元郵政相であり、事務総長で息子の祐介氏は、日本ミャンマー開発機構の副社長で、軍部の熱烈な支持者でもある。同機構を含め、鹿島のようなゼネコンから丸紅などの商社まで、多くの日本企業がミャンマー援助に関連する巨額プロジェクトにかかわっている。こうして、日本の政財界は軍部と利益共同体をなしていると言えよう。
 これは30年以上前に起きた天安門事件のあとと同様の構図である。すでに公開された外交史料から明らかになっていることだが、日本政府は、自国民を殺戮した中国共産党政権が窮地に陥らないよう、事件直後から体系的に支援し、いち早く制裁を解除した。それがどれだけ中国共産党政権を助け、結果的に甘やかしたことか。
 一方で現在進行形のミャンマー危機において人権侵害に目をつぶり、他方で習近平政権下の中国を批判し、オリンピックへの政府代表派遣を見合わせても、恣意的だとのそしりをまぬかれない。実のところ人権など気にせず、特定の国、ここでは中国のイメージを悪くするためにしていることなのでは、という疑念が生じてもおかしくはない。
 したがって、同じ人権侵害でも、決してしてはならないことを国として打ち出し、その最低限の原則を守ることは、人権の理念と実践がいかに危ういものであっても必要である。自国の市民を殺戮したり、自国内の一民族を(精神的でもあれ身体的なものであれ)抹殺しようとする行為がそれにあたる。
 なお、人権侵害を告発する当事国においても人権侵害が散見されるケースがほとんどであろう。それを理由に、他国の批判をすべきではない、その資格はないとする議論も内外に見受けられる。しかし、それは当たらない。米国のような国でも、ブラックライブズマター(BLM)や#MeTooなどの運動があるように、問題は残り、また再生産されている。その内なる問題は、外に対して人権の重要性を掲げる中で、同時に取り組んでいけばよい。なんとなれば、人権を守る運動は、何も掲げず見過ごす中で立ち枯れてしまう。外に人権を説きながら、内の矛盾がより鋭敏に意識されよう。ダブルスタンダードを避けるべく中の問題を意識すれば、相乗効果が見込める。
 その意味で、日本は、中国やミャンマーで起きていることをなかったことにしてはならない。その何が問題なのかはっきりと姿勢を示し、越えてはならないラインを官民挙げて試行錯誤しながらでも練り上げていかねばならない。同時に、入国管理における人権侵害や、広く社会に残る性差別の問題など、自国の課題に取り組んでいくべきと考える。

◆遠藤 乾(えんどう けん)さんのプロフィール

北海道大学公共政策大学院長/同法学部教授/日本国際問題研究所客員研究員。
北海道大学法学部卒業、北海道大学大学院法学研究科修士課程修了、ベルギー・カトリック・ルーヴァン大学大学院修士課程修了、オックスフォード大学博士課程修了(政治学博士)。北海道大学法学部助手、同講師、同助教授を経て、2006年より現職。他、欧州大学研究所ジャンモネ研究員、欧州大学院フェルナン・ブローデル上級研究員、パリ政治学院・東京大学・対外経済貿易大学・国立政治大学客員教授等を歴任。専門はEU、安全保障、国際政治。
著書に、『欧州複合危機-苦悶するEU、揺れる世界』(中公新書、2016年)、『統合の終焉-EUの実像と論理』(岩波書店、2013年)(読売中央公論・吉野作造賞受賞、2014年)、The Presidency of the European Commission under Jacques Delors: The Politics of Shared Leadership (Macmillan/St Martin’s, 1999) 、編著に、『ヨーロッパ統合史』『原典ヨーロッパ統合史-史料と解説』(名古屋大学出版会、2008年)、『グローバル・ガバナンスの最前線-現在と過去のあいだ』(東信堂、2008年)、『グローバル・ガバナンスの歴史と思想』(有斐閣、2010年)、『主権はいま』(筑摩書房、2019年)。岩波書店『シリーズ日本の安全保障』(2014-2015)編者。

2012年より日本外務省政策企画ユニット研究会メンバーを務めたほか、日韓トラック1.5政策対話メンバーであり、日中間の政策対話も組織。2015年より外務省政策評価委員、2017年より日本国際問題研究所で欧州情勢に関する研究会主査。より広い市民のフォーラムへも積極的に関与し、日本・中国・韓国・台湾の識者・実務家が集う北海道ダイアログの創設メンバー。


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