1、『論語』と原始仏典
『論語』には、「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」と書いてあります※1。原始仏典では、次のように述べられています。
「かれらもわたくしと同様であり、わたくしもかれらと同様である」と思って、わが身に引きくらべて、(生きものを)殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬ。
もしも汝が苦しみを恐れるならば、もしも汝が苦しみを嫌うならば、あらわにも、あるいは秘密にでも、悪い行いをするな。※2
『論語』と原始仏典とで、よく似たことが言われていますけれども、違いもあります。第1に『論語』では、「施すこと勿かれ」の目的語である「己の欲せざる所」が抽象的に述べられています。私たちは何を欲し、何を欲しないのでしょうか。「人が何を欲し、何を欲しないかは、人それぞれだ」と言われるかもしれません。たしかに人によって違う部分もあるでしょう。けれども、違わない共通な部分もあるでしょう。原始仏典は、「悪い行いをするな」と命じるにあたり、「自分がされたら嫌だろう」という論理で相手を納得させています。「悪い行い」とは一般的には「苦しめること」であり、なによりも「殺すこと」です。これが仏教の不殺生戒です。「殺すこと」は「害すること」とも言い換えられ※3、それが具体的に「殺すこと、打ち、切断し、縛ること」とも解説されます※4。
ですから仏教の不殺生戒は、殺してはいけない、傷つけてはいけない、行動の自由を奪ってはいけない、という3つの義務を述べるものと解されます。この3つの義務に対応するのが、殺されない権利、傷つけられない権利、行動の自由を奪われない権利です。これら3つの権利は、日本国憲法でも世界人権宣言でも認められています※5。世界人権宣言では第3条で明確に生命権、身体の安全保障権、自由権として認められています。日本国憲法では生命権は第13条で、自由権は第13条および第33~34条で、身体の安全保障権は第13条ではおそらく暗黙の内に、また第36条で公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止として認められています。もちろん、日本国憲法では他にも多くの基本的人権が謳われています。けれども、今述べた3つの権利は、社会権よりも、他の自由権よりも優先する、最も重要な権利です。
次に、『論語』と原始仏典の第2の違いです。『論語』では、「己の欲せざる所、施すこと勿かれ」という義務の向かう相手は「人」です。しかし原始仏典では、人ではなくて「生きもの」です。「生きもの」には、もちろん人間も含まれます。ちなみにここでいう「生きもの」は古今和歌集の仮名序にある「生きとし生けるもの」や生類憐みの令にある「生類」と同じ用法で、現代でも「生きもの」といえば通常は生物一般ではなくて人間を含めた動物のことです。特に原始仏典は、人間と他の動物の共通性を強調します。人間にとって生が愛おしく、死や傷害や苦痛が忌まわしく、拘束や監禁されることが極めて重大な不利益であるように、他の動物にとっても生は愛おしく、死や傷害や苦痛は忌まわしく、拘束や監禁されることは極めて重大な不利益になります。この点で人間と他の動物の間に違いはないというのです。
2、基本的動物権
基本的人権は自然権です。特に生命権と身体の安全保障権と行動の自由権について見てみましょう。人間にこれら3つの権利がある根拠は、人間の生物学的あり方にあります。殺されれば生を失い、傷つけられれば苦痛を感じ、拘束されたり監禁されたりすれば価値ある行為のほとんどすべてができなくなります。それだけではありません。最近流行の『鬼滅の刃』という漫画の中で、水柱・冨岡義勇が述べる「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という有名な言葉があります。拘束や監禁されれば、おそらく生殺与奪の権力を他人に握らせるという危険なことになります。今述べた人権の根拠は、人間に特有ではありません。人間と同じ生物学的あり方をしている他の動物にも共通です。ですから、これら3つの権利は、人間に絶対に必要なように、他の動物にも絶対に必要です。言い換えると、これら3つの権利は、基本的人権というよりもむしろ基本的動物権なわけです。このように人間以外の動物にも生命権と身体の安全保障権と行動の自由権がある──したがって、これらの基本的動物権を認めよ──という主張は、動物権利論と呼ばれます。
3、人間中心主義
それに対して、基本的動物権を認めないで基本的人権だけを認める考え方は、人間中心主義ということになります。この考え方によれば、人間以外の動物は権利の主体ではなく、所有権の客体たる物にすぎません。ですから私たち人間は、他の動物を売買したり処分したりできるのです。言うまでもなく、これが現代日本の法的現実です。とはいうものの「動物の愛護及び管理に関する法律」もあって、そこでは「人と動物の共生する社会の実現を図ること」が目的として謳われています。ですから動物はたんなる物でもないようです。動物がどのようにたんなる物ではないのかと言うと、基本原則として「動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないように」しなければならないと述べられています。しかし動物に権利を認めてはいません。ですから動物の利益と人間の利益を天秤にかける場合には、ほとんど常に人間の利益が優先することになります。これが現状の動物福祉です。要するに、人間の利益を阻害しない限りで動物の福祉にも配慮しようということです。
4、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』
目の前にある現実しか見ないのは悲しいことです。目の前の現実を永遠不変の所与と見なしていると、重大なことを完全に見落とす可能性があります。現実には、動物は何百万、何千万、何億という規模で「監禁」され、「虐待」され、「虐殺」されています。しかし人間は動物です。私たちは人間である以前に動物です。人間が監禁され、虐待され、虐殺されていれば、私たちは憤るでしょう。人間には生命権、身体の安全保障権、行動の自由権があるからです。けれども、すでに述べたように、これら3つの基本的人権の根拠は他の動物にも基本的動物権を与えます。
私は、拙著『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』において、動物権利論をできるだけ詳しく説明し、動物権利論の立場から人間は動物とどのように付き合うべきかをさまざまな場面ごとに考えました。畜産や動物実験、動物園/水族館や競馬、伴侶動物や介助動物、野生動物などについてです。理想を語ると同時に現実的な提案も述べています。拙著の最後のほうではキリスト教と仏教という宗教について、また動物権利論の思想的広がり──非暴力の思想──についても触れています。
動物権利論は、人権思想の延長線上にあって、人間中心主義に挑戦します。現行法では正当化されている動物の監禁、虐待、虐殺を、基本的動物権を侵害するおぞましい不正義だとして告発します。私たちと同じ動物がいじめられているからです。このような視点が、「動物の愛護及び管理に関する法律」を進化させ、真に人間と他の動物が共生する社会を実現するためには必要です。拙著が少なくともそのような方向性を示せるかどうか、検討していただければ、幸いです。
※1 『論語』顔淵篇第二章、衛霊公篇第二十四章。
※2 『ブッダのことば──スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫)705句、および『感興のことば(ウダーナヴァルガ)』第9章3句。
※3 『ブッダのことば』400句。
※4 『ブッダのことば』242句。
※5 ただし日本国憲法や世界人権宣言では、権利の主体が人間に限定されます。
◆浅野幸治(あさの こうじ)さんのプロフィール
豊田工業大学特任准教授。専門は哲学・倫理学。著書に、『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(ナカニシヤ出版、2021年)、共著書に、松島・宮島編『薬学生のための医療倫理 新版』(丸善出版、2021年)、宮園・大谷・乘立編『因果・動物・所有』(武蔵野大学出版会、2020年)、盛永・松島・小出編『いまを生きるための倫理学』(丸善出版、2019年)、訳書に、ヒレル・スタイナー著『権利論』(新教出版社、2016年)、ジャン・バニエ著『人間になる』(新教出版社、2005年)などがある。
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【関連HP:今週の一言・書籍・論文】
今週の一言(肩書きは寄稿当時)
「もの言えぬ動物に法の光を」
細川敦史さん(弁護士)