世界で起きてきた炎上事例
ここ数年、ファッション界や美術館のイベントなどの華やかな世界で、「文化の盗用」cultural appropriation として炎上する事例が世界で増えている。最近の事例だと、「ヴァレンティノ」のウェブ広告で、日本の着物の帯に見える布の上をハイヒールを履いたモデルが歩く演出が、「日本の文化を冒涜(ぼうとく)している」との批判を招いた。また、2019年には、人気セレブのキム・カーダシアンが自身の下着ブランドに「KIMONO」というブランド名を付けたところ、批判を招いたためにブランド名を変更している。ほかにも人気デザイナーのファッション・ショーで白人モデルたちがドレッド・ヘア(黒人のスタイルとされてきた髪型)で登場したことが批判を浴びた。これらはファッションの世界の出来事だが、美術の世界でも、2015年、ボストン美術館でモネの絵画「ラ・ジャポネーズ」の前で着物を試着し撮影するイベントが、「文化の盗用」「人種差別的」といった抗議を受けて中止になっている。
日本国内でも、アイヌ民族の文様や言葉の商業利用の中に、「文化の盗用」にあたるものがあるとの指摘がある。この問題については、現在、アイヌ民族の知的財産権保護のための社団法人もある(阿寒アイヌコンサルン)。伝統的な文様や刺しゅうなどを模倣して大量生産によって価格を安くした商品が出回ることで、アイヌ文化本来の自然素材と一体化した「ものづくり」の良さが見失われ、そのコンセプトを大切にしてきたアイヌのクリエイターの意欲がそがれてしまうことが懸念されている。ここには文化的価値の保護と、経済的利益の保護の両面の問題が含まれている。
模倣の自由か、盗用か
文化は、触発と模倣によって発展してきた。誰かが何か目新しいものや、これまで注目されていなかったものを発見し、触発され、それを自分の表現や生活文化に取り入れようと模倣する、ということは、歴史の中で無数に繰り返されてきた。そのこと自体を封じることは、すべきではないし、不可能だろう。モネもゴッホも自身の作品の中で日本の伝統美術を模倣しているし、フランスやドイツで発達してきた磁器も日本・中国の磁器の技術とデザインの模倣から出発しているが、こうした数百年前の文化交流と混交を「盗用」として問題視する人はいないだろう。
しかし、文化や芸術が複製技術によって大量生産される時代に入ると、模倣による「被害」というものが、放任できない問題となってくる。発明やデザインや芸術作品を生み出した作者が、模倣によって利益を横取りされて精神的にも経済的にも立ち行かなくなり潰れていくことを防ぐために、特許権、意匠権、著作権といった知的財産権によってその利益を保護する制度が作られ、今に至っている。
こうした制度ができてくると、自由にしておくべき模倣と、法によって規制すべき「盗用」との間の線引きが必要になってくる。知的財産法の世界では、「創作性」の有無と「保護期間」とによってその線引きを行っている(店の看板やロゴマーク、エンブレムを扱う商標権の場合には「創作性」は要求されず、「他と識別できること」が要求されるのだが、その話はここでは省略する)。
法制度による保護の難しさ
こうした知的財産権の中でも、伝統文化の盗用の問題は、意匠権や著作権の問題になりそうに見える。しかし、意匠権や著作権でこれらを保護することは難しい。なぜなら、意匠権をとる場合には「新規性がある」と言えるレベルの創作性が必要とされ、伝統文様を忠実に継承しているという事実だけでは権利をとることは難しい。また著作権も「創作性」が必要とされるため、伝統文様に新たな創作を加えないと権利は発生しない。しかし伝統文化を誠実に継承したい人々にとっては、権利のために安易に個人的創作を加えることは、それこそ文化への冒涜と感じられ、躊躇を感じることなのではないだろうか。また、その文様などの芸術的意匠が、著作権制度ができるより以前から確立していたり、遅くともそれが確立した後すでに著作権保護期間を過ぎている、という場合にも、権利を主張することは難しい。しかしこれについては、著作物を生み出した個人や生み出された時点を起点として考えるのではない、集団の権利としての著作権という考え方も提唱されている。これが法制度にどのように反映されていくのか、注目していきたいところである。
差別的な社会的文脈への理解
しかしこうした事柄に関する批判や抗議の発言をいくつか見ていくと、模倣による経済的被害よりも、冒涜的に扱われていること、差別的に扱われていること、勝手に消費の対象にされていること、といった人格的な問題に焦点があるように見える。
この線で思い出されるのは、アメリカで奴隷制度があった時代に流行した「ミンストレル・ショー」である。これは、白人が黒人の滑稽さを誇張して演じて面白がるという「お笑いショー」である。これは人種差別を真正面から肯定することで成り立っていた人種差別文化であり、こうした軽蔑的嘲笑もヘイトスピーチの一類型であるという論者もいる。アメリカにはこうした表現ジャンルへの明確な反省があるために、白人が顔を黒塗りにして黒人を演じることを、差別表現・侮蔑表現として拒否する感覚が共有されている。ファッション・ショーで白人がドレッド・ヘアで登場する写真などは、そうした背景を考えずにただ見れば、「カッコいいのになぜ?」と思う人もいるだろう。表現者の側では「カッコいい」というリスペクト感覚で模倣したのに、模倣された側からは「侮蔑された」「盗用された」という負の感情が起きてくる、ということは、現実にさまざまなところで起きる。
日本では、若い女性をどう描くかで、しばしば炎上が起きる。私的な表現としての漫画表現などは、法的には「わいせつ」や「児童ポルノ」に当たらない限りは自由なのだが、警察署の交通安全PRや自治体のPRなどでは、女性のキャラ絵のあり方が「不適切」と問題になる例がある。そうした例では「女性の容姿が性的に消費されている」という批判がしばしば見られる。これも、社会的文脈を交えずにただ見れば、そうであるともないとも解釈できるように見えるが、これまでの社会的背景を考えたときに、そう感じて怒りを感じる人々がいるという事実を無視できない場合がたしかにある。こうした事柄に共通するのは、それを受け止める人々にとっての社会的文脈である。
異文化理解の作法
たとえば、映画「レナードの朝」では、ロバート・デ・ニーロが、神経の異常によって痙攣(けいれん)を繰り返す患者を迫真の演技で演じている。見ようによっては、身体障がい者や病人をいたたまれなくさせる模倣表現だと指弾されてもおかしくない。しかしそうした批判によって上映がボイコットされたという話を、筆者は知らない。作品の意図と、演技者の真剣さが、見る者に明確に伝わる作品だからだろう(明確すぎて説教臭いメロドラマになっている、という高度な作品批評はここでは措くことにする)。そうした作品には、作る側に相当の覚悟と力量がいる。そして、炎上した数々のケースと、この作品との間の差を、法律によって線引きすることはできそうにないとも思う。
文化的盗用と根底で深く結びついている、社会的差別や権力性という問題は、法規制によって統制するという対症療法にはなじまないように思われる。そこで、規制的な法政策ではなく、一方ではそうした価値ある伝統文化に文化財指定などの価値承認をしていくこと(これは実際に行われている)、他方で模倣したがる表現者に無神経な模倣(模倣される側にとって「盗用」となるような模倣)を慎んで真摯な理解をするように促すガイドラインを策定する、という方策を組み合わせることが良策だ、と筆者は考えている。文部科学省もこの問題への取り組みを行っている。また国際レベルでも「文化享有権」の中でこの問題が議論されている。こうした取り組みを通じて、異文化理解のプロセスを組み込んだ共存社会づくりが、もう一歩、前進することを願っている。
◆志田陽子(しだ ようこ)さんのプロフィール
武蔵野美術大学造形学部教授(憲法、芸術関連法)、博士(法学)。
「表現の自由」、文化的衝突をめぐる憲法問題を研究課題として、映画、音楽、美術など、文化から憲法を考えることをライフワークに講演活動を行っています。
主著 『合格水準 教職のための憲法』(法律文化社、2017年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)、『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局、2018年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『映画で学ぶ憲法II』(編著)(法律文化社、2021年)。
【関連HP:今週の一言・書籍・論文】
今週の一言(肩書きは寄稿当時)
『「表現の自由」の明日へ:一人ひとりのために、共存社会のために』大月書店、2018年10月刊行
憲法を知ることは、リアルと普遍の間を何度でも行き来すること―『映画で学ぶ憲法』
志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)
書籍『映画で学ぶ憲法II』
志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)