1 最高裁が袴田事件第二次再審請求特別抗告に差し戻しの決定を下す
2020年12月22日、最高裁は袴田事件の第二次再審請求特別抗告に対して、東京高裁の再審開始取消決定を取り消し、ふたたび東京高裁に差し戻すとの決定を下した。事件は半世紀以上前の1966年、静岡県清水市の味噌製造販売会社専務宅で一家四人が殺害され放火されたというもので、味噌製造工場に住み込み工員として働いていた袴田巌さんが犯人とされ、1980年に最高裁で死刑判決が確定。死刑確定後、袴田さんは再審請求を行ったが、長年の拘禁のなかで拘禁性精神病状態に陥り、第一次再審請求が2008年に終結してからは、実姉秀子さんが第二次再審請求の請求人となって審理がつづいていた。
第二次再審請求審で、2014年に静岡地裁が再審開始決定を下し、確定死刑囚であった袴田さんの身柄を解くという異例の措置を取ったことで、袴田さんは秀子さんのもとに生還。しかし、これに対して検察側が即時抗告を行い、2018年に東京高裁は再審開始決定を取り消す決定を下して、ただ身柄を解く措置はそのまま維持した。この再審開始取消決定に対して弁護側が特別抗告を申し立て、これを受けた最高裁が、今回、東京高裁の取消決定を取り消して、審理をふたたび東京高裁に差し戻したのである。いやいや、まことにややこしい。日本の刑事司法の手続きを知らない人からすると、この裁判の流れを聞いても、すっと理解することは難しいだろう。
この段階で最高裁には3つの選択肢があった。1つ目は、弁護側の特別抗告を棄却して、第二次再審請求を終結させること。そうなれば確定死刑囚である袴田さんは獄に再度収監され、弁護側はさらに第三次再審請求を準備する以外になくなる。2つ目は、弁護側の特別抗告を受け入れて、再審開始を決定づけること。こうなれば確定死刑囚の再審として1989年の島田事件以来31年ぶりの画期的な事態となる。そして3つ目が、最高裁としての独自の判断を示さず、東京高裁に差し戻すこと。今回の決定はこの3つ目、最高裁は再審開始の可能性を示しつつも、この段階での再審開始の決定に踏み切らなかったのである。これが事件から54年後の最高裁の判断だった。事件当時30歳だった袴田さんは、この最高裁決定時点ですでに84歳、そして裁判はさらにつづくことになる。
2 自白の心理学的分析が無実証拠となりうること
これだけ長期にわたって決着がつかず、裁判所の判断が転々とするというのは、事件そのものがそれだけ複雑微妙で、判断が難しかったからではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、第一次再審請求段階で弁護団の依頼を受けて、袴田さんの自白過程を心理学の観点から分析し、その結果を鑑定書として提出してきた私から見れば、この事件は「微妙すぎて判断が難しい」というようなものではけっしてない。袴田さんはこの事件で警察調書28通、検察調書17通、計45通、400字の原稿用紙に換算すれば600枚を超える膨大な自白調書を取られている。しかし、その自白調書を精査すれば、これが犯行体験者の語ったものだとはとても思えない。何しろ、連日長時間、しばしば深夜に及ぶ取調べを受けて、とうとう一家四人を刺し殺し、金を奪い、火を放ったという全犯行を認めたというのに、その自白内容を見れば、動機から犯行態様、その後の始末に至るまで、自白転落のその日から3日間、犯行筋書が日替わりで大きく変転している。そもそもその変転の理由がまったく理解できない。それに、もし袴田さんが本件犯人ならば、自白に犯人ならではの「秘密の暴露」があってしかるべきところ、そうした自白内容は一切ない。むしろ反対に、本件犯人ならば知らないはずのないことを知らなかったり、その点を間違ったかたちで語っていて、「無知の暴露」と言わざるをえない自白内容が顕著に認められる。端的に言えば、これは袴田さんが本件の犯行体験者ではないこと、つまり無実者でしかないことを示している。言ってみれば「自白が無実を証明する」。じっさい、私は鑑定書でそのように結論づけた。ところが、裁判官からはこれが「論理の飛躍」と見えたらしく、私の鑑定書はほとんど門前払いのかたちで否定されることとなった。
自白は危険な証拠だと言われる。その通りである。しかし、ここでいう「危険」は、自白を有罪証拠とするときの危険性である。逆に、自白の語りの分析によって自白が非体験者のものでしかないことが論証されるのであれば、じつは当の自白が無実の証拠となりうる。それもまた当然の理である。もちろん刑事裁判において弁護側は被告人の無実を証明する必要はないのだが、一方でアリバイ証拠のように無実を証明する証拠があるのであれば、もちろんこれを無視することは許されない。このアリバイ証拠と同等の可能性が自白の心理学的分析にはありうると、私は考えてきた。
3 袴田さんの取調べ録音テープの分析から見えてきたもの
第一次再審請求段階において私が分析したのは、取調官が作成した自白調書で、言わば自白過程の二次資料でしかなく、その点で限界があったのだが、その取調べの録音テープが、第二次再審請求で出てきた。静岡地裁が再審開始決定を下した後の即時抗告審段階でのことである。この録音テープはそれまでその存在すら知られていなかった。それが約47時間分、ほとんど半世紀ぶりに表に出てきたのである。それはまさに一次資料であるし、全取調べ時間の1割強にとどまるとはいえ、否認段階の取調べの録音もあり、自白転落当日は転落後の取調べの8割あまりが録音されていた。この録音テープを聞いてみれば、警察調書は取調官が都合よく作文したものでしかなく、またその作成過程について取調官たちが法廷で述べた証言にはいくつもの偽証があることが明らかになる。取調官たちのこの不正を見逃してよいはずはない。そのことを私は新たな鑑定書で指摘してきたのだが、裁判所はこれを問題として取り上げようとせず、いまだに不問に付したままである。
そればかりでない。この取調べ録音テープからは、先の自白調書からよりもはるかに明確に、袴田さんがいかにこの事件の犯行を知らないかが読み取れる。これはまさに無実の証拠である。私はこのことをふたたび鑑定書で論証して見せた。しかし、残念ながら、この鑑定書もまた再審を開始する「新規にして明白な証拠」とはならなかった。刑事訴訟の世界では、自白だけで有罪判決を下せないという法の理念が当然視されるあまり、その自白が無実を示す証拠となりうるという視点が見過ごされてしまっている。
じっさい、袴田事件の原審の確定判決は、まず自白以外の情況証拠を優先して、そこから有罪の心証を固めたうえで、この有罪判断の下で自白の矛盾や変遷も説明できるかのように認定している。この点は再審請求審でもまったく同じで、情況証拠からの有罪判断を前提に、たとえば袴田さんの日替わりの犯行筋書の変転について「真犯人でもその自白に嘘を交えることがありうる」という経験則を持ち出して、これを合理化して見せたりする。つまり、あくまで自白以外の情況証拠からの判断が優先で、自白の判断は付随的なものでしかないというのであろう。たしかに、一般論としてそれは正当な認定手続きであるように見える。しかし、これでは袴田事件やあるいは狭山事件のように、捜査側の証拠偽造が疑われ、偽造された証拠が有罪の決定的証拠となっているような場合、その偽造が証明されないかぎり、これがネックになって、いつまでたっても再審は開始されないことになる。
4 それでもなお裁判はつづく
自白には有罪証拠としての危険性と同時に、一方で無実証拠としての可能性がある。私はあれこれの事件に出会っていくつもの自白の心理学的鑑定を行ってきたが、そのなかでこのことを強く確信するようになってきた。そして、いま、この認識を法曹界に広げ、根づかせていくことが、私たち心理学者にとって重大な任務ではないかと考えている。
私はこの問題意識の下に、昨年(2020年)12月、袴田事件の録音テープ分析を主題とする『袴田事件の謎―取調べ録音テープの語る事実』(岩波書店)を刊行した。今回の最高裁決定が出たのは、偶然にも、その5日後のことであった。何の前触れもなく突然に下された最高裁の差し戻し決定のニュースを聞いたとき、私はとりあえず再審開始の方向性が維持され、袴田さんの再収監の心配がなくなったことで、正直ほっとした。しかし、一方で、暗然たる気持ちを禁じることができなかった。最高裁がこの段階で自ら再審開始を決定することもできたのに、そこまでは踏み切らなかったからである。
救いは、決定を下した最高裁判事5名のうち2名が差し戻し決定に反対し、この時点で再審開始を決定すべきだとの反対意見を述べたこと。同時になるほどと思ったのは、この反対意見の2名の判事が刑事訴訟畑の出身ではなく、他方で差し戻しに同意した3名の判事が裁判官出身2名と弁護士出身の1名だったことである。刑事司法の実務経験をもつ人たちが「差し戻し」という曖昧な判断にとどまったのである。そこにはまさに象徴的な意味合いを感じざるをえない。
袴田裁判はこれからもなおつづく。私の仕事もまだ終わっていない。
◆浜田寿美男(はまだ すみお)さんのプロフィール
1947年 香川県小豆島生まれ。
奈良女子大学名誉教授・立命館大学上席研究員。
専門は発達心理学、法心理学、供述分析。
著書に『「私」とは何か』(講談社)、『障害と子どもたちの生きるかたち』(岩波現代文庫)、『自白の研究』(三一書房、のちに北大路書房から新版)、『自白の心理学』『虚偽自白を読み説く』(岩波書店)、個別事件については『狭山事件虚偽自白(日本評論社、のちに北大路書房から新版)、『自白が無実を証明する』(北大路書房)、『名張毒ぶどう酒事件―自白の謎を解く』(岩波書店)、『もう一つの帝銀事件』(講談社)、『袴田事件の謎―取調べ録音テープの語る事実』(岩波書店)などがある。
【関連HP:今週の一言・書籍・論文】
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