ここ20年以上、数多の選挙結果に快哉を叫ぶこともあれば、来たるべき試練を思い、唇を噛み締める日々が続いてきた。辺野古新基地建設に反対の立場を取る者としては後者のほうが多く、終わりの見えない現実(現状)に徒労感は否めない。
1997年、名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票に関わり、国家権力の横暴さを目の当たりにして痛感したことは、為政者の究極の目的は、地域住民、その地で生きる人々の間に分断と軋轢を生じさせることなのだということだった。同じ名護市民が基地建設の是非を挟んで賛成か反対かに分断される。日常生活の中で顔の見える相手と闘わざるをえない状況は、痛みという言葉では言い表せない屈辱感を芽生えさせるのに十分だった。
なぜ私たちは闘わせられなければならなかったのか、分断させられなければならなかったのか。市民投票を契機に抱いていた疑問が溶解したのは、闘うべき相手は隣人ではなく、問題を抱え込んだ政策を持ち込んだ国にこそあると教えてくれた「先住民族」論であり、基地問題が人権問題であること、国連の人権機関に一市民でも訴えられる機会があることを教えてくれた国際人権法を用いて活動を続けるNGOのメンバーたちだった。なぜ沖縄にこれほどまでの米軍基地が存在するのか。いつまで沖縄の人びとは米軍基地に賛成か反対かで争わなければならないのか。解の見えない問いに、先住民族の権利という考え方は現状を打破する鍵になると思えた。
民俗学や文化人類学的な人種や民族の発想とは成り立ちを異にする国連のIndigenous peoples、先住民族という国際人権における用語は、ILO第169号条約(1989年)が語る、近代国家が独自の文化や言語を持ち歴史を育んできた民族に対して、征服、植民地化、領土の国境線画定によって国民として一方的に統合し、近代国民国家の形成過程で、一方的に同化政策を強制され、土地や文化、言語を奪われ、差別を受けてきた、または現在も差別的状況が続く民族的集団で、集団としての意志を表示しうる民族的集団、に表される。
沖縄の歴史を振り返れば、中国、明との朝貢貿易を通してアジア圏の中継貿易国としての地位を築いて琉球王国形成の足掛かりとし、冊封体制によって高度な安全保障を確保した。しかし、逼迫した藩財政を立て直す政策として琉球貿易の独占と大島分割を求めて琉球侵略を敢行した島津氏の武力侵攻によって、1609年、琉球は実質的に近世日本の幕藩体制のもとに組み込まれていった。そして、1872年の「琉球藩」設置、1879年には処分官、松田道之の警察巡査隊、歩兵半大隊を伴う「琉球藩」の廃止と沖縄県の設置により琉球処分が断行された。
第二次世界大戦時、日本政府による日本本土防衛の時間稼ぎとされた沖縄は地上戦の惨禍を極め、住民の三分の一とも、四分の一ともいわれる犠牲が払われた。戦争によって奪われた土地が返ることもなく、戦後は米軍占領下において基本的人権が享受できない期間が続いた。その間、人々の食と職に必要不可欠な土地を軍事基地として銃剣とブルドーザーで強権的に接収したことについては、いかに米国がハーグ陸戦法規3節52条を法的根拠としたとしても、条項上の現品が不動産には認められておらず、さらに事実上の戦争が終結した当時にあっては明らかに法を逸脱した行為であったことが96年の代理署名拒否訴訟準備書面でも述べられている。加えて、沖縄の人びとは狭隘な土地で生活せざるをえなかったのみならず、米軍、米軍人による度重なる事件、事故により、人間の尊厳が脅かされ続けた。
1972年の日本本土復帰は、いわば施政権が米軍から日本政府に移管されたにすぎず、基本的人権が享受できる平和憲法の庇護のもとに入れると望んだ沖縄の人々の思いを足蹴にする。核抜き、本土並みは達成されないばかりか県外の米軍基地機能が移設、展開される結果となった。97年の軍用地特措法の改定によって米軍用地の収用は首相が代替できることとなり、沖縄県知事が軍用地の接収を拒む権利は事実上、奪われた。
今日においても、米軍基地から派生する事件、事故は後を絶たず、軍用機が大学構内に墜落しても、沿岸に「不時着」大破しても、民間の牧草地で墜落炎上しても、保育園や小学校の構内に米軍機の部品が落下しても事故原因はまともに解明されず、被害者への補償が十分になされない状況は、もはや戦後ではなく、いまなお占領下であり、新たな軍事基地が建設されようとする様は、日本政府と米国政府の共謀による沖縄の軍事支配を呈している。さらに、辺野古新基地建設にかかる一連の県と国との裁判の判決が報道されるたびに司法の独立、三権分立という言葉が霞んでいく。「県敗訴」という法による救済の道が閉ざされる度に選挙結果の試練にも似た暗澹たる思いに駆られる。しかし、否、だから、というべきか、為政者による不正義がより強固に浮かび上がってくる。
裁判の判決に加え、軍事に関する他県との違いには唖然とさせられる。迎撃ミサイル、イージス・アショアが杜撰な配備計画の露呈や地元の反対もあって2000億円と見積もられていた計画が易々と停止されたことと比べ、建設に反対する県知事が当選しても、大浦湾海底の軟弱地盤やキャンプ・シュワブ陸上部における二つの活断層の問題をいくら提起しても、県の試算で工期13年、総工費2兆5500億円と報道されても、住民投票で反対の意思が示されても、海上基地建設は推し進められている。事前調査の瑕疵が露呈して計画を停止する県外の事例と、瑕疵を糊塗して海上埋立てを強行する様は、琉球処分を断行した島津を彷彿とさせ既視感が否めない。
さらには、軍事基地建設に対し平和的な解決を求めて行動する人々を、法秩序を破壊する者と喧伝し、別件逮捕を繰り返して長期勾留するという卑劣な手段を講じるのは、沖縄で新たな分断を図ろうとする政治権力の詐術を弄しているにすぎない。圧倒的な権力により幾度も足蹴にされ、生を脅かされてきた沖縄の民衆の歴史を振り返る時、戦後、米軍の土地接収に伊江島農民が乞食行進で抗した時代から高江、辺野古の闘いまで、徹底した非暴力主義が貫かれている。国連の人権機関に訴える民衆の運動は、権力に対し、銃を取るでもなくテロを起こすでもなく、座り込む、行進するという徹底的非暴力実力闘争(新崎盛暉)の延長線上にある。
90年代半ばから始まった国際人権法に則った国連の各種人権機関へのアプローチによって、2001年の人種差別撤廃委員会による勧告の中では「琉球・沖縄の住民は、固有のエスニックグループとして認められることを求めており、その島がおかれている状況が、住民に対する差別的行為を生み出していると主張している」として沖縄のことが触れられた。以後、日本政府報告書審査において、同委員会、自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会でも先住民族の観点から権利を保障するよう勧告が出されている。日本政府は勧告が出されるたびに、日本にはアイヌ民族以外に先住民族はおらず、沖縄に居住する人々も日本国民であり、世界一危険な普天間基地は「辺野古移設が唯一の解決策」だと胸を張る。さらに近年、県内の自治体議会から「先住民族」の国連勧告に対し撤回を求める意見書が出されていることを引き合いに、国連の場で、人種差別にはあたらない、沖縄では先住民族という意識は無い、と語る。
県内で先住民族という言葉に対するハレーションはかつても地元紙のオピニオンページに論考が掲載されることがあり、今に始まったことではない。これまでも、先住民族の権利を訴える国連NGO琉球弧の先住民族会のメンバーらを中心に、都度、先述のILO169号条約の定義や国連先住民族の権利宣言(2008年)の議論から、非文明的なステレオタイプの先住民族のイメージとIndigenous peoplesという権利主体は異なること、沖縄の歴史、政治的背景からいまなお差別的政策が継続している状況は日本政府による政治の不作為の結果であること、そのような状況、歴史的背景を共有する集団が先住民族であることなどを提起してきた。
他方、復帰運動を担ってきた世代や方言札によってウチナーンチュが日本人よりも劣等なもの、ウチナーグチが日本語よりも下位にあると意識付けられた世代において、いくら権利があるとはいえ、先住民族というフレーズに違和感を抱かざるをえないことは想像に難くない。しかし、ここ数年の間に起きている県内市町議会での意見書採択というこれまでとは異なる動きとは裏腹に、それらの意見書からは前近代からアップデートされない優性思想が垣間見える。取りも直さず意見書からは1903年の内国勧業博覧会における人類館事件や、久志富佐子の「滅びゆく琉球女の手記」(1932年)に激高した沖縄の知識人たちと同様な無自覚な人種、民族的序列意識が見え隠れするし、自治体議会が意見書を採択してまでも「沖縄県民は日本人である」と反論する状況は、議員自ら、自身のルーツと歴史に誇りを持てないことを覆い隠すかのようにも思える。ある自治体が採択した意見書では、国連の「先住民族」勧告は、復帰運動を担った先人たちの苦労を踏みにじるものとしているが、先述のとおり、平和憲法のもとへと願った先人たちの思いを踏みにじったのは他でもない日本政府である。
国連人権機関へのアプローチに取り組んできた者の一人としては、在沖米軍基地の土地や施設の整理縮小を求め、遊休化した土地を少しずつでも返還させる努力を地道に続けてきた先人たちに倣い、非暴力による新基地建設反対、反軍事行動の末端を担うものとして、先住民族の権利という概念を通して、より普遍的な人権の観点から軍事に頼らない平和で且つ持続可能な社会の在り方を求めること、そして何より誰もがよりよく生きる権利を押し広げていくこと、いま、沖縄で先住民族の権利を語る意義はそこにあると考える。
◆親川裕子(おやかわ ゆうこ)さんのプロフィール
1975年生まれ 宜野湾市出身 大学非常勤講師(ジェンダー・複合差別研究、沖縄現代史)