【マグロ漁場で行われた核実験】
私が、被曝者の取材を始めたのは16年前。取材先は高知県内の漁村でした。被曝者の取材が、なぜ広島・長崎ではないのかと疑問をもたれるかもしれません。しかし多くの被曝者が高知県内にいました。
なぜならマグロ漁師が被曝していたからです。
アメリカとイギリスは1962年までに太平洋上で行った100回以上の核実験がマグロの漁場で行われていたからです。その3分の1が高知県の船でした。
【わずか10ヶ月間で打ち切られた放射能検査】
「1954年、第五福竜丸が水爆実験の死の灰を被って被曝、通信長の久保山愛吉さんが亡くなった」という話は教科書でも紹介されています。多くの人が第五福竜丸1隻が被曝した事件だと思い込んでいますが、当時は、連日のようにマグロ船の被曝が新聞で報じられていましたので、ほとんどの日本人がたくさんのマグロ船が被曝していたことを知っていました。しかし、時間が、記憶を風化させていきました。
1954年3月、日本政府は、全国各地の港で放射能検査を行いました。その結果、延べ992隻の被曝が確認されたのです。ところが、その年の末、安全宣言を行い、放射能検査をわずか10ヶ月で打ち切ったのです。
そのため、翌年の1月1日からは、すべてのマグロが水揚げされることになりました。しかし、核実験はその後、回数を増やし続け、1962年まで続けられたのです。少なくとも、私たち日本人は、1955年1月1日から1962年までの8年間、核実験が続く爆心地付近でとったマグロを食べ続けたのです。しかし、核実験が終わった瞬間、汚染が消えるはずもなく、人体に影響のあるストロンチウムやセシウムなどが半減するには29年の歳月を要します。1990年代ですら、やっと半減した状態だったのです。
最近になって、やっと「1000隻のマグロ船が被曝した事件」と伝えられるようになりましたが、1000隻というのは、わずか10ヶ月間の放射能検査で被曝が認められた船の延べ数です。マグロ漁場での核実験は1946年から62年の17年間行われているのですから、核実験中に被曝した船は、延べ数万隻にのぼると考えられています。また「ビキニ事件」と呼ばれることがありますが、核実験が行われたのは、ビキニ環礁だけではなく、ジョンストン島、クリスマス島、モールデン島などいくつもありますので、その名称は限定的な核実験を表すものなのです。
「1000隻が被曝」「ビキニ事件」「第五福竜丸事件」「3.1ビキニデー」などの言葉は、事件の矮小化に一役かってしまっている部分もあるのです。
【ほぼ知られていない甚大な被害】
大気圏内核実験は、むき出しのまま100パーセントの放射性物質がばら撒かれるため強烈な放射能汚染を引き起こします。
その結果、被曝した人は天文学的な数に及びます。
1、爆心地で漁をしたマグロ船乗組員
2、爆心地付近を通過した捕鯨船、貨物船、客船など
3、核実験に関わった兵士
4、爆心地のマグロを食べ続けた日本人
5、風に乗って広がった放射性物質を浴び続けた日本列島で暮らす人、アメリカ大陸で暮らす人
この図は5を証明するものです。
【日本を汚染し続ける核実験の放射能】
これは日本の政府機関である気象研究所が測定してきた日本国内の放射性降下物(セシウム137、ストロンチウム90)の量を示しています。測定が始まったのは1957年。大気圏内核実験が盛んに行われていた1950年代から80年頃まで高い数値を示しています。下がり始めるのは、中国が最後に行った1980年10月の大気圏内核実験の後です。私たちの暮らすこの日本は長期にわたり放射能汚染し続けてきたのです。
【キノコ】
福島第一原発事故を受け誕生した「みんなのデータサイト」は、2014年から「東日本土壌ベクレル測定プロジェクト」として延べ4,000人規模で3,400ヶ所以上の土やキノコを採取し放射能測定を行いました。その結果、原発事故が及ぼした東日本一帯の放射能汚染の厳しい実態が浮かび上がりました。しかしその測定の中で不可解なことが起こったのです。原発事故由来ではない放射性物質が各地で見つかったのです。中には基準値を超えているものもありました。
その後、それは核実験由来の放射性物質だということが分かったのです。
【今の話】
この事件を追いかけてきてよく言われることは「もう60年も前の話でしょ。今更どうするの・・・」という言葉です。しかし、それは「気象研究所のデータ」や「みんなのデータサイト」の結果を見れば間違っていることが分かります。過去の話ではありません。今の話であり、未来の話なのです。
【分かっていること】
日本が核実験による放射能の雨で汚染し続けていたことも分かりました。爆心地付近でとったマグロを日本人が食べ続けていたことも分かっています。マグロ船が、年何度も爆心地に通い、乗組員が強く被曝し続けたことも分かっています。近くを航行した様々な船が被曝していることも分かっています。日本近海の海が放射能汚染していたこともわかっています。
【わからないことは、無かったこと】
しかし、その結果、私たちの体に何が起こっているのか?それは全く分かっていないのです。これは16年間、この事件を追い続けてきてますます強くなっている疑問です。なぜ調査しないのでしょうか。国民の命に関わる問題です。もし、国民の健康や命に何らかの影響を与えているとしたら、原発や医療機器など放射線に関わる全ての扱いを大きく見直す必要があります。
しかし「被曝はしたが、調査しないから何が起こっているかわからない。だから何も起こっていない」という暗黙の了解がある。と私は感じています。だから放射能の被害は起こり続けるのではないでしょうか。加害者は責任を取ることもなく、被害者は、泣き寝入りするしかないのです。
【アトミックソルジャー】
2020年1月。私たちはイギリスに渡りました。核実験に参加したイギリス兵士に会うためでした。イギリスは、1957年から62年にかけ、太平洋の真ん中にあるクリスマス島周辺で核実験を行いました。もちろん、クリスマス島もマグロ漁場にありますので、多くの日本のマグロ船が漁をしています。その島で行った核実験がどのように行われたのか直接聞いてみたかったのです。
【教育映画】
なぜ、イギリスの兵士たちに話を聞こうと思ったのか。そこには理由があります。それは一本の教育映画の存在がありました。小中学生向けに作られた映画で、タイトルは「荒海に生きる」。1957年、遠洋マグロ船の1航海(およそ40日間)にカメラマンが乗り込み、漁の様子を収めたものです。当時のマグロ漁の様子を子どもたちに知ってもらいたいと作られました。しかし、この映画には撮影の年月日などの記載はなく、イギリスの核実験との関係を特定できないでいました。
【クリスマス島へ向かうマグロ船】
映画は、高知県室戸市の様子から始まります。そして17歳の息子をマグロ漁へ送り出す母の姿、家族がラジオを囲み、マグロ漁場でイギリスが核実験を行うので心配している様子が描かれています。さらに航路が示され、日本を出港したマグロ船が、クリスマス島周辺の漁場に行くのに核実験場周辺に危険区域が設定され、回り道をすると漁場までの燃料が足りないとナレーションは語ります。日本を出港するマグロ船。ところが、クリスマス島に向かっている時、核実験が行われたという無電が入ります。さらに船は、アメリカの核実験で強く汚染したマーシャル諸島付近を通過。
【謎を解き明かした新聞記事】
イギリスがクリスマス島で核実験を行ったのは1957年、58年、62年です。映画が完成したのは1958年。とすると1957年に撮影したと考えられます。しかし、その確証がないままでした。
ところが、2018年、ある新聞記事がその全てを解き明かすことになったのです。その記事とは、1957年発行の高知新聞で、核実験に反対する抗議船が浦賀を出港したという内容でした。その抗議船こそが、映画に描かれた船だったのです。抗議船だったため、その船にカメラマンが同行したのです。記事には、出港から帰港までの日時や様子が細かく書かれていました。そのことで、「荒海に生きる」とイギリスの核実験の関係が明らかとなったのです。
【なぜ「荒海に生きる」が撮影されたのか?】
「荒海に生きる」が撮影された1957年といえば、アメリカがマグロの漁場で核実験を初めて、すでに12年がたっていました。核実験は、マグロ漁に大きな打撃を与えていました。ところが、イギリスまでもが漁場での核実験に手を挙げたのです。日本国内で抗議の声が上がります。そのため、核実験に反対する団体などが中心となって、抗議船を核実験場に派遣する計画が持ち上がります。当初、大型船をチャーターし、抗議活動に賛同する人が乗り込む予定でしたが、危険であることや予算がかかり過ぎることなどから、尻すぼみとなり、結局、マグロ船にノボリを立て、抗議船、という名目で出港させることになったのです。その抗議船にカメラマンが乗り込んだのです。
【3回の核実験】
「荒海に生きる」は、核実験中、漁を続ける乗組員の様子を映し出した、おそらく世界でただ一つの実写映像です。船の名は、第七幸鵬丸(だいしちこうほうまる)。
第七幸鵬丸が出港する直前に、イギリスはクリスマス島で核実験を行います。周辺の漁場は強く放射能汚染されました。日本政府は、イギリスに強く抗議しますが、航行中、2回目の核実験を強行。さらに、クリスマス島周辺で操業中に3回目の核実験を行ったのです。第七幸鵬丸は、核実験で強烈に汚染した海で漁をし、生活しました。
第七幸鵬丸乗組員の生存者の一人は、「年8回、日本とマグロ漁場を行き来して漁を行っていた」と証言しました。年間、8回爆心地を訪れ、長期にわたり放射線にさらされていたのです。マグロ船乗組員は被曝し続け、爆心地でとれたマグロは水揚げされ続けたのです。
【手の骨が透けて見えた】
私たちは、核実験に関わったイギリス軍人を取材することにしました。まず彼ら自身が立ち上げた英国核実験退役軍人協会に連絡を取り、取材の申し込みをしました。その結果、7組の元軍人や遺族から話を聞くことができるようになったのです。
取材を始めてまず驚いたのは、私たちの取材が盗聴されていることでした。また彼らを取材しているイギリス国内のジャーナリストが殺害されていることでした。それは彼ら自身が被害者であり、彼らは政府を訴えているからでした。
クリスマス島の核実験では、2通りの立場がありました。
核実験を所管する軍、そして科学者。彼らは、被曝のリスクを知り、防護服などを着用するなどして防護していました。もう一つは、今回取材した若い兵士たち。彼らは、上半身裸のような軽装備のうえ至近距離で放射線を浴びました。
明らかに後者は被曝させられたのです。
彼らの証言は驚くことばかりでした。「爆心地に背中を向けて座れと命じられた。さらに目を閉じ、手のひらで目を覆うように言われた。爆発した瞬間、手の骨が透けて見えてビックリした。爆風で仲間たちは吹き飛ばされてあちこちに転がっていた。ママ、ママ、と叫んでいる兵士もいた。」「しばらくすると脇の下がメロンのように膨らんで手術した。」「奇形の子どもがたくさん生まれた」「仲間たちは、ガンや白血病で早くに亡くなった。」
そして「マグロ船が危険区域に入ってきたため実験が遅れた。」「出て行けと言ったが、出て行ったかどうかはわからない。」などマグロ船が爆心地付近にいたことも明かしてくれました。
【なぜ生存できているのか?】
核実験に関わった兵士は22,000人。生存者は1500人と言われています。現在生存しているもっとも若い兵士で73歳。多くが80代前半の年齢です。私は、目の前で語っている元兵士を見ながら、今、目の前に座って語っていることの奇跡を実感しました。なぜ、生きてしゃべっているのだろうか・・・と。
【解明されない被曝】
核実験の被害は、ほとんど解明されていません。核実験は、アメリカ、イギリスだけではなく、ロシア、中国、フランス、インド、パキスタン、北朝鮮・・・など多くの国で行われました。その被害は最も大きな環境破壊と言われています。
爆発による「被爆」は目視でき、被害がある程度特定できます。しかし放射線による「被曝」は、目に見えず、その被害は医学的な裏付けができないまま泣き寝入りする。ということが繰り返しされてきました。60年前のマグロ船乗組員の被曝ですら調査もされず、認められることもなく、補償もされていないのです。福島で起こった原発事故が同じような轍を踏まないことを願っています。
「調査しないから分からない。分からないことはないということ」。このロジックが生き続けている限り、いつまでもこの問題は解決しないまま被害者を生み出し続けていくのです。命と経済を天秤にかけた時、命の方に傾く、そんな当たり前の世界を作らなければなりません。
◆伊東英明(いとう ひであき)さんのプロフィール
1960年愛媛県生まれ。
1990年代、アーティスティックな映像制作に取り組み、国内外の美術展や映画祭に出品。ベルリンビデオフェスト、バンクーバー国際映画祭、イギリス短編映画祭など国際映画祭で招待上映される。2000年、テレビの世界に転じ、ドキュメンタリーを中心とした番組制作を行う。2004年、偶然、太平洋核実験によるマグロ漁船、アメリカ大陸、日本列島の放射能汚染の事実に出会い、取材を開始。以来、毎年、同テーマで番組制作を行う。2012年には、映画「放射線を浴びたX年後」を全国劇場公開、上映は国内外200カ所以上に及び、2015年には映画「放射線を浴びたX年後2」を劇場公開。2016年には、同テーマでNNNドキュメント‘16「汚名」(語り 樹木希林)を放送。2017年秋からは、アメリカでの上映活動を開始。その後も取材を続けている。
そのほか、ハンセン病の問題や俳句などの文化、夫婦の営みなど日常に目を向けたドキュメンタリー番組を作り続け、NNNドキュメント(日本テレビ)を中心に発信し続けている。 また、厳冬期のマウント・マッキンリーやアラスカ北極圏、南東アラスカ、アラスカ西部ネイティブの集落の取材など、アラスカでの取材や、ドイツの環境問題、ポーランドの文化、アメリカやカナダでの取材など、一眼レフカメラを使ったワンマンオペレートでの取材も多い。
2004年、地方の時代映像祭グランプリ、石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞、2006年以降、日本民間放送連盟賞優秀賞、民間放送教育協会奨励賞、地方の時代映像祭奨励賞などを受賞。2012年ギャラクシー賞大賞、日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞、日本記者クラブ賞特別賞、第86回キネマ旬報ベストテン、第30回日本映画復興奨励賞、メディア・アンビシャス大賞などを受賞。
著書には、太平洋核実験の被害を追いかけた『放射線を浴びたX年後』(講談社)がある。
【関連HP:今週の一言・書籍・論文】
今週の一言「映画「放射線を浴びた『X年後』」―"経済"と"命"を計る天秤」
伊東英朗さん(映画監督)