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今週の一言
憲法九条発案者をめぐる論争に「終止符」を
2020年6月15日

笠原 十九司さん(都留文科大学名誉教授)


1 憲法九条幣原発案の証明
 日本国憲法第九条(以下憲法九条)の発案者が誰であったかをめぐっては、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー説、当時の日本の首相の幣原喜重郎説、あるいはマッカーサーと幣原の合作説(この説のなかでは、幣原が一般的な理想論として平和論、不戦論を述べたのをマッカーサーが憲法九条に定めたという説が多い)、さらには当時外務大臣で幣原の後に首相となった吉田茂説、その他の発案者説、および真相不明説まで、それこそ百家争鳴の状況を呈してきた。
 これまで憲法九条について、あるいは日本国憲法について著書を著してきた学者・ジャーナリストのなかで、歴代自民党政権の党是に近い改憲論者は、連合国軍最高司令官のマッカーサーの「押しつけ」とする説をとっている論者がほとんどであるが、護憲派に立つ論者のなかにも、幣原発案説を否定する憲法学者、政治学者が少なくない。
 憲法九条発案者をめぐる論争(以下、憲法九条論争)は長期にわたり、多数の論者によってさまざまな立場、視点から論じられてきたし、現在も論じられている。日本国憲法公布から70年以上が過ぎて現在にいたるも論争の「結着」がつかずに、誰が憲法九条を発案したかが実証的に特定され、定説となっていないのは、歴史学を専門とする筆者にとっては理解できないことである。筆者は内外において、南京大虐殺事件(南京事件)研究の専門家と一先ずみなされているが、1980年代後半から南京事件研究に携わり、いわゆる「南京大虐殺論争」「南京事件論争」に関わってきた。同論争の経緯は拙著『南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社ライブラリー、2018年)を参照していただければと思うが、南京事件論争はすでに学問的には結着がつき、まともな歴史研究者で、南京事件否定論を主張する者はいないし、日本の歴史辞典類には南京事件が記述され、歴史学界では定説となっている。
 そのような筆者が、憲法九条論争にたいして、「結着」をつけるべく使命感のようなものを覚えて執筆したのが近刊の拙著『憲法九条と幣原喜重郎―日本国憲法の原点の解明』(大月書店、2020年4月)である。その使命感というのは、幣原喜重郎が憲法九条に託した平和思想を日本国民に広く知ってもらいたいという思いである。
 それは、核兵器拡張競争の行きつく先である核戦争による人類の破滅を阻止するための、極めて現在的な平和思想であり、憲法九条を「地球憲法九条」「地球憲章九条」としなければならない思想である。
 筆者が憲法九条幣原発案を否定する憲法学者や政治学者の著書を検討したところ、彼らに共通する陥穽があることが分かってきた。それは敗戦後の日本社会と国際社会の特別な時代状況をしっかりと理解していないことである。具体的には、以下のような時代状況を理解できなかったのある。すなわち、1946年1月24日に幣原首相が連合国軍総司令部(GHQ)のあった第一生命ビル6階のマッカーサー執務室を一人で訪問して、3時間近くにわたり英語で直接「秘密会談」をもち、幣原の方から、当時GHQ民政局がマッカーサーの指示を受けて“Top Secret”(最高機密)として作成準備中であった憲法改正草案に、敗戦国日本の「戦争放棄」「軍備全廃」「交戦権放棄」の条項を入れることをマッカーサーに提案し、それにマッカーサーも意気投合して「秘密合意」に達した結果、10日後にマッカーサーから憲法改正草案作成の責任者となったホイットニー民政局長に「最高司令官から憲法改正の『必須条件』として示された3つの基本的な点」(いわゆる「マッカーサー・ノート」)として指示するにいたった時代状況である。
 日本国憲法の九条ならびに象徴天皇制は、幣原とマッカーサーの「秘密会談」による「秘密合意」で決定された事実を「秘密」というキーワードを用いて証明したのは、筆者が始めてのように思われる。なぜ幣原とマッカーサーが「秘密会談」による「秘密合意」にしなければならなかったかについて、拙著の「第7章 マッカーサーとの『秘密会談』における幣原の憲法九条発案と『秘密合意』」において、幣原とマッカーサーのそれぞれの側の立場から詳細に分析したので、一読いただければ幸いである。ここで一点だけ述べれば、マッカーサー連合国軍最高司令官は主として連合国政府とくにマッカーサー・GHQを統制する権限をもっていた極東委員会と対日理事会にたいする配慮と牽制のためであった。いっぽう、幣原首相はマッカーサー・GHQが日本政府の行政機構を利用した間接占領の方式をとったため、首相の政治権限は、大日本帝国憲法に規制され、限定されたたままであった。それは、天皇は元首として「統治権を総攬」し、「陸海軍を統帥」する権限をもち、内閣総理大臣である首相は「天皇を輔弼」する国務大臣の首席にすぎなかったからである。さらに憲法改正は、天皇の「勅令」をもって発議するものとされていたので、幣原首相が天皇を差し置いて、憲法九条に相当する憲法改正案を閣議で発議する権限はなかった。幣原内閣で憲法改正担当の国務大臣となった松本烝治の方が「国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」(大日本帝国憲法第五五条)という権限をもち、幣原内閣の閣議決定を経ずに天皇に直接、憲法改正「松本私案」を上奏できたのである。「松本私案」が大日本帝国憲法の一部を改正するにすぎないことを知っていた幣原は、当時の首相の権限では、「松本私案」を阻止できないがゆえに、熟慮のすえマッカーサーとの「秘密会談」をもって、憲法九条の構想を提案して「秘密合意」に達し、マッカーサー・GHQに「押しつけられた」形にした憲法九条の制定に「成功」したのであった。憲法九条幣原発案を否定する論者たちは、拙著で詳述したような、憲法改正草案作成当時の特殊な日本の国内や国際状況への理解が不足していたのである。
 ところで、歴史上、権力側が国民に秘密にした事件や政治問題は、膨大にのぼる。日中戦争における日本軍部の謀略事件は、戦時中はすべて「極秘」とされ、国民は真相を知ることができなかった。戦後の歴史学の使命は、私が関わった南京事件もそうであるが、戦時中に軍部・政府や権力側が国民に秘匿した謀略事件や侵略政策やその実態を実証的に究明して、その真相を国民に明らかにすることにあった。その場合、歴史研究者にとっての幸運は、戦時中の「極秘資料」「機密資料」が公開されたり、発見されたりすることである。
 幣原喜重郎とマッカーサーの憲法九条についての「秘密会談」と「秘密合意」についても、当時は “Top Secret”(最高機密)、「内密」とされた記録類を見ることが可能になっている現在、拙著のようにそれを証明することは、そう困難なことではない。拙著は新しい資料の発掘や発見によるのではなく、すでに公刊されている記録、資料、文献に基づいており、今日まで、なぜ筆者のような研究がなされてこなかったのか、不思議に思うくらいである。
 大日本帝国憲法改正草案(日本国憲法草案)の作成当時秘密にされた、幣原喜重郎とマッカーサーの「秘密会談」と「秘密合意」について、拙著では、マッカーサー・GHQの動向と昭和天皇と側近の動向と、幣原喜重郎および幣原内閣の動向と、三つの動向を平行させて構造的に分析することによって解明した。そして三者のそれぞれの動向から幣原とマッカーサーの「秘密会談」と「秘密合意」が否定できない事実として証明できることを明らかにしたのである。
 拙著のその決め手となった史料は、幣原については、岐阜県選出の衆議院議員で、衆議院議長をしていた幣原の秘書役を務めていた平野三郎が、幣原の自宅を訪れて聞き書きを記録した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項の生まれた事情について」で、1964年2月、憲法調査会(岸信介内閣により1957年に発足)の高柳賢三会長の求めにより提出した資料であり、「平野文書」と称される。同文書は、国会図書館の憲政資料室で閲覧することができ、鉄筆編『日本国憲法―9条に込められた魂』(鉄筆文庫、2016年)にも収録されている。
 「平野文書」は、平野三郎が幣原の死の旬日前に世田谷区岡本にあった幣原の自宅を訪れて、2時間ほど聞き取りをした記録である。幣原は、若手議員として可愛がっていた平野三郎に、「口外しないように」という条件をつけて、1946年1月24日のマッカーサーとの「秘密会談」において「秘密合意」をしたその経緯と憲法九条を発案するにいたった平和思想についてまで、情熱をこめて語ったのである。「平野文書」は幣原自身が憲法九条発案について語った第一次史料である。
 ついで、憲法九条幣原発案を裏付け、証明するのがマッカーサーが残した演説や講演の記録、および回顧録である。マッカーサーは1946年1月24日の幣原との「秘密会談」と「秘密合意」について、幣原の死後、「幣原老首相」「内閣総理大臣幣原氏」「幣原男爵」などと幣原の名を出して、幣原の方から「戦争放棄」「武力不保持」などを新憲法に入れることを提案したことを公表したのである。
 さらに決めてとしてマッカーサー側の記録として紹介したのが、コートニー・ホイットニー『日本におけるマッカーサー―彼はわれわれに何を残したか』(毎日新聞社)である。ホイットニーはGHQ民政局長として憲法草案作成の責任者であったが、1946年1月24日、GHQ本部を訪れた幣原をマッカーサーの執務室へ案内し、「秘密会談」が終わって幣原を送り出した後、マッカーサーの執務室に入り、興奮冷めやらぬマッカーサーから、幣原が「新憲法に戦争と軍事施設維持を永久に放棄する条項を含むよう」発案を出して「秘密合意」が成立したことを聞き、さらにホイットニーに「国家の至高の権利としての戦争は廃棄される」という原則を含むよう指示したことが記されている。1946年1月24日の幣原とマッカーサーの「秘密会談」と「秘密合意」の現場ルポのような記述である。このときのマッカーサーの指示は後日、「マッカーサー・ノート」となってホイットニーに渡された。

2 昭和天皇も幣原発案を知っていた―『昭和天皇実録』より
 拙著では、天皇と側近の動向については、『木戸幸一日記』などの天皇側近の日記や日誌を使って検討したが、恥ずかしながら『昭和天皇実録』全18巻(東京書籍、2015~2018年、以下『実録』)を見たのは、拙著執筆後であった。したがって、本稿は拙著の追加補充にあたる。そのため、本稿はやや長くなるが、読者は諒とされたい。『実録』は昭和天皇が亡くなって以後、宮内庁書陵部編修課が「昭和天皇を顕彰する」ために、1990年から編修事業を開始し、4半世紀をかけて2016年に完成した昭和天皇に関する記録資料集である。
 『実録』の第十巻(1946年1月~1949年12月、以下『実録』はこの第十巻のことをいう)に、上述のように、1946年1月24日に幣原がマッカーサーと「秘密会談」をもち「秘密合意」にたっしたことについて、幣原は翌日に皇居に参上し、昭和天皇に報告したのである。『実録』の記述はこうなっている(同書23頁)。

【昭和二十一年一月二十五日】
午後三時二十五分、表拝謁ノ間において内閣総理大臣幣原喜重郎に謁を賜い、奏上を受けられる。幣原は、昨日聯合国最高司令官ダグラス・マッカーサーと会見し、天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき懇談を行った。奏上の際、幣原に対し、国家再建のために皇室財産を政府に下賜したい旨を仰せになり、またこのことについて近く自らマッカーサーを訪問して、その意向を伝える考えにつき、準備を整えるよう御希望を示される。これに対し幣原より、思召しは誠に有り難いが、かつて食糧輸入の見返り物資として、皇室の宝石類を下付したいとの天皇のお考えを、マッカーサーが皇室の人気取り策と誤解した前例(昨年十一月)もあるため、熟考を要する旨の奉答を受けられる。

 幣原首相は1946年1月24日にマッカーサーと「秘密会談」をもち、「天皇制維持」と「戦争放棄」などについて懇談し、おそらく「秘密合意」におよんだことを天皇に直接報告したのである。拙著に述べたように、マッカーサーは「象徴天皇制と憲法九条をセットにする」ことによって、昭和天皇の戦争責任の免責と東京裁判不起訴をアメリカ政府や連合国に受け入れさせる妙案が得られたので、幣原との「秘密会談」の翌日、アメリカ政府にたいして「天皇に明確な戦争責任がない」という報告を電報で送ったのであった。
 幣原の報告を聞いた昭和天皇が、皇室財産を政府に下賜したい旨をマッカーサー伝えたいと言ったのは、改正憲法に象徴天皇制を規定することに同意することをマッカーサーに伝えたいという天皇の意志表示であったと推測できる。
 敗戦後とはいえ、当時はまだ欽定憲法であった大日本帝国憲法下にあり、前述のように憲法改正は天皇の「勅令」によって発議されるべきものであった。したがって、幣原首相にとって、天皇の承諾を得ずして憲法改正の議論をマッカーサーとの間に進めることはできなかったのは、当然といえば当然であった。さらに『実録』を見ると、幣原首相は月に一度は必ず、重要問題がある場合はそのつど、天皇に拝謁し、政治の報告をし、天皇からも下問の形で、質問やコメントがなされているのが分かり、これも大日本帝国憲法下では天皇が国政の主権者であり、内閣総理大臣は天皇を輔弼する高官に過ぎないのであるから当然のことであった。したがって、幣原とマッカーサーの「秘密会談」「秘密合意」を天皇が知っていたように、幣原首相はこれまで考えられていた以上に昭和天皇と密接な関係にあり、天皇の了解を得ながら政治をおこなっていたのである。
 そのころ、幣原内閣において、松本烝治国務大臣のもと、憲法問題調査委員会による憲法改正「松本私案」の作成が最終段階を迎え、1月30日の臨時閣議で初めてGHQに提出すべき「松本私案」について審議し、松本国務大臣はGHQに提出する「松本私案」をもって2月7日に皇居に参上し、天皇に説明をしたのである。そのうえで2月8日に松本国務大臣は、GHQに「松本私案」を提出、これにたいし2月13日に麻布の外相官邸で吉田茂外相とともにGHQ民政局長ホイットニーらと会見した松本国務大臣は、「松本私案」の全面拒否を言い渡され、代わりにGHQ民政局作成の憲法改正草案を提示されたのであった。
 この間松本国務大臣は、幣原首相からはもちろん、拝謁を得て「松本私案」を説明した天皇からも、幣原とマッカーサーとの「秘密合意」について一切知らされることなく、「松本私案」の追加説明書を提出するなどして、GHQ民政局から提示された憲法改正草案に空しい抵抗を試みたのであった。
 幣原はマッカーサーとの「秘密合意」について「松本君にさせ打明けることのできないことである」と「平野文書」で語っているように、憲法改正草案作成を担当した松本烝治国務にたいしてはもちろん、幣原内閣の閣僚にたいしても秘密にしたまま一切報告をしなかった。憲法九条幣原発案を否定する論者たちが、「幣原首相は閣議において、憲法九条は私が発案したのだと自慢するはずであった」とか、「幣原は閣議でGHQ草案に反対した」などと論じているのは、当時の政治状況を理解していないからである。
 『実録』には幣原がマッカーサーと「秘密会談」を持った3日前の1月21日に「午後、表拝謁ノ間において内閣総理大臣幣原喜重郎に謁を賜い、幣原より病気完治につき御礼言上、及び奏上を受けられる」(『実録』21頁)とある。
 幣原は前年の10月9日に幣原内閣を発足させて以来の激務の連続とすでに73歳であった高齢ゆえ、年末から年始にかけて風邪を悪化させて急性肺炎となり、それが重症となって1月中旬まで首相としての職務ができなかった。それを知ったマッカーサーが主治医の軍医を幣原邸に派遣し、ペニシリンを投与したので、幣原は回復に向かい、やがて全快したのである。幣原は「平野文書」で語っているように、肺炎で寝込んでいた時に、「戦争放棄」「軍備全廃」「交戦権放棄」などの規定を改正憲法に入れ、それを象徴天皇制とセットにしてマッカーサーに提案することを決意し、ペニシリンのお礼を口実にマッカーサーと「秘密会談」をもつことにしたのであった。ただし、憲法改正は天皇の大権にかかわる大問題なので、マッカーサーとの「秘密会談」の前に、天皇にその旨の報告をして、一定の了解を得ておく必要があったので、1月21日に天皇に拝謁して「奏上」したと思われる。前述のように幣原はマッカーサーとの「秘密会談」の翌日に天皇に報告しているので、その前後の流れは自然であろう。
 問題は、1月21日の「奏上」で、幣原がどこまで天皇に話したかであるが、『実録』には記されていない。
 その一つのヒントは、平野三郎『《昭和天皇の決断》平和憲法の水源』(講談社出版サービスセンター、1993年)にある。同書は、1946年1月24日の幣原とマッカーサーの「秘密会談」について、ルポルタージュのように記述した章の最後に次のように記している(75頁)。

  首相は最後に言った。
 「元帥。このことは天皇の希望でもお願いでもありません。天皇はただ、思い切って憲法を改革せよ、そう私に言われただけです。つまり私一個の考えに過ぎないのですが、私は天皇の本来あるべき姿、つまりシンボルに帰って頂くのが最善と信じています。これ以上は何も申上げません。あとは元帥の御判断に待つのみです」
 そう言うと、首相はもう一度ペニシリンの礼を述べて別れを告げた。

 昭和天皇が憲法改正案作成の担当大臣であった松本烝治の「松本私案」では、ポツダム宣言の条件に適っておらず、アメリカ政府や連合国に受け入れられないことを懸念していたことは拙著で述べたとおりである。『実録』にも松本から『憲法改正要綱』として奏上された「松本私案」にたいして、天皇が懸念してコメントを述べたことが記録されている。
 前掲の平野書の記述は「平野文書」には書かれていない。幣原とマッカーサーの「秘密会談」の最後の場面で、幣原がマッカーサーに「天皇はただ、思い切って憲法を改革せよ」と言ったということを「平野文書」に書かなかったのは、天皇の生存中にそれを公表するのを憚ったことによる。それは、昭和天皇が徹底した憲法改正をマッカーサーへも間接的に要請したことを意味するからである。ちなみに前掲の平野書は昭和天皇が死去した後に出版された。
 拙著で明確に述べたように、昭和天皇は、「日本の究極的政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される」、戦後の政府は「現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする」というアメリカの対日占領政策に従った象徴天皇制により、天皇制(国体)を護持することに執念を燃やした。そのためには大日本帝国憲法を「思い切って改革する」ことを望んだと思われる。
 2月13日にGHQ民政局から憲法改正草案の提示を受け、回答期限の前日の2月19日に開かれた幣原内閣の定例閣議では、拒否を主張する松本国務大臣を中心に閣議は紛糾するが、閣議では回答期限を2月22日まで延期することをGHQに要請することに決め、幣原首相がマッカーサーの意向を確認することになって、2月21日にGHQ本部にマッカーサーを訪問し、二人だけで3時間余にわたり第2回目の「秘密会談」をもった。この会談で幣原とマッカーサーのGHQ草案受諾の基本的合意が確認されたのである。翌22日の定例閣議では、マッカーサーとの会談についての幣原の報告を受けて、GHQ草案の受諾を決定した。同日の『実録』には、「午後二時五分、御文庫において内閣総理大臣幣原喜重郎に謁を賜い、一時間以上にわたり憲法改正につき奏上を受けられる。その際、幣原は聯合国最高司令部作成の憲法草案を天皇の御手許に提出する」と記録されている(46頁)。
 幣原内閣は3月6日の午後5時「憲法改正要綱」を勅語、総理談話とともに新聞発表した。同日の『実録』には、「午後九時十分より十時二十分まで、御文庫に木下(侍従次長)をお召しになり、今夕の憲法改正草案要綱の研究結果につき御聴取になる。天皇は自らの退位につき、新聞報道に関連して現状ではその意志のない旨をお伝えになり、この度の稔彦王の挙動を残念に思う旨を述べられる」と記されている(64頁)。
 発表された「憲法改正要綱」に「第一章天皇」と冒頭に国民主権下の新たな天皇制の条項が定められたことにより、象徴天皇制という形態で国体が護持されることが確定した。さらに、マッカーサーの指示によって東京裁判に訴追されないことがすでに確実となったので、天皇裕仁は、自分は退位しないことを明言したのである。衆議院、貴族院と日本帝国議会での審議を経て決定された日本国憲法は1946年11月3日に公布されるが、その半月ほど前の1946年10月16日にマッカーサーとの第3回目の会見をおこなった天皇は、マッカーサーにたいして「この度成立する憲法により、民主的新日本建設の基礎が確立された旨の御認識を示され、憲法改正に際しての最高司令官の指導に感謝の意を示される。そして戦争放棄の大理想を掲げるこの憲法に、日本はどこまでも忠実でありたい旨を述べられる」と『実録』に記されている(198頁)。
 象徴天皇制という形で国体の護持を規定した日本国憲法の誕生にたいして、昭和天皇は感謝こそすれ、マッカーサー・GHQに「押しつけられた」などという思いはなかったのである。

3 憲法九条に託した幣原の平和思想を継承し、世界平和運動を発展させよう
 筆者が「憲法九条発案者をめぐる論争に『終止符』を、と銘打って拙著を刊行した目的は、これまで不問に付されてきた、憲法九条に託した幣原の平和思想を全面的に紹介し、それが現在の国際社会にとって「地球憲法九条」とすべき重要な課題を提起していることを日本だけでなく、国際社会においても再認識してもらいたいという願いからであった。拙著において、幣原喜重郎の「遺言」として全面的に紹介した「平野文書」のなかで、幣原は熱い思いを込めて、核戦争による人類の滅亡を救うための先鞭をつけた憲法九条の思想を語っている。
 「世界の共通の敵は戦争それ自体ある」という指摘で終わる幣原の語りは、憲法九条にこめた世界へのメッセージという内容になっている。それは、原子爆弾の製造、保有がアメリカだけでなく、他国にも広がり、核戦争になれば、アメリカも亡びる運命になるという警告である。さらに幣原の先見の明といえるが、当時強まりつつあった資本主義陣営と社会主義(共産主義)陣営のイデオロギー対立を表面化させた冷戦体制も、やがては共産主義イデオロギーの全くの変貌によって崩壊することを予見し、最終的には戦争、核戦争が「世界共通の敵」になると指摘したことである。その世界核戦争を防止し、人類を滅亡から救うための唯一の道が、核兵器の全面禁止であり、日本は軍備全廃を規定した憲法九条により、その先鞭をつけようとしたのだ、というメッセージである。
 幣原が憲法九条にこめた核兵器廃絶の世界へのメッセージは、人類にとってますます重要な意味をもってきている。オハイオ大学名誉教授のチャールズ・オーバビーが、湾岸戦争終結直後の1991年3月に「第9条の会」をアメリカに設立し、『地球憲法第九条(A CALL FOR PEACE The Implications of Japan’s War-Renouncing Constitution)』(国弘正雄訳 講談社、1997年)を出版し、「日本国憲法第9条」を世界中の人々に伝える運動を展開しているのはその一つである。
 マッカーサーも、幣原喜重郎が亡くなってから公然と、幣原が憲法九条を発案しマッカーサーに提案したことを話すようになったが、その中で、幣原がマッカーサーに向かって「世界はわれわれを嘲笑し、非現実的な空想家であるといって、馬鹿にすることでしょうけれども、今から百年後には、われわれは予言者とよばれるまでに至でありましょう」と語ったと述べている。
 幣原が憲法九条に託した平和思想は、現在の日本では、たとえばケン・ジョセフ・ジュニア、荒井潤『憲法シュミレーションノベル KENが「日本は特別な国」っていうんだけど……』(トランスワールド、2017年)に紹介されている「平野文書をユネスコ世界記憶遺産」に登録して「シデハラさんを世界に知らせよう」という運動に継承されてきている。
 さらに、2017年3月に発足した「9条地球憲章の会」があり、その中心メンバーである堀尾輝久東京大学名誉教授は、「丸山眞男先生の平和思想―ゼミ生としての想いに重ねて」と題した東京女子大学の第19回丸山眞男文庫記念講演会(2019年12月7日)の報告集でつぎのように紹介している。
 「九条の理念で地球平和憲章を!非戦・非武装の世界を実現するために」と題した設立趣意書は、マッカーサーが憲法調査会会長高柳賢三の質問に書簡で答えて「あれ(9条)は幣原首相の先見の明とステイツマンシップと英知の記念塔として朽ちることはない」(1958.12.5)と述べたことを記している。そして趣意書は、「9条は一国の平和だけでなく世界平和を求めるものであり、それなくして、一国の平和も保てないことについても自覚的なのであり、まさしく積極的平和主義なのです。9条の精神を世界に拡げなければ、その平和主義は完結しないのです」と謳っている。同会は世界に運動を広め、その成果を国連の活動や決議に活かし、「世界各国の国民と政府が、国政と外交の原則に日本国憲法の非戦・非武装の精神をとりいれて人類と地球を守る施策を求める」地球憲章の制定を目指して、日本から世界へ平和運動を発進する運動に取り組んでいる。まさに幣原喜重郎が憲法9条に託した平和思想、平和運動を継承、発展させるものである。
 いっぽう国際社会では、2017年7月の国連で「核兵器禁止条約」が122カ国の賛成で採択された。2019年現在で、批准国33カ国に達している(禁止条約の発効には50カ国の批准が必要)。2017年度のノーベル平和賞には、核兵器禁止条約の国連での採択に大きな役割を果たした国際NGOネットワーク「ICAN」(核兵器廃絶国際キャンペーン)が選ばれた。しかし、「唯一の被爆国」日本の安倍晋三政府は「アメリカの核の傘」の必要を理由にして、条約に反対した。
 世界の歴史の流れは、幣原が「今から百年後には、われわれは予言者とよばれるまでに至でありましょう」と語ったとおり、憲法九条にこめられた核兵器廃絶の平和思想が紆余曲折を経ながらも現実味を帯びてきている。
 今年の新型コロナウィルスのパンデミック(世界的大流行)から世界の政府と国民、とくに核兵器を保有、配備している大国は何を学ぶかは、人類史にとって重要な課題になっている。いわゆる「ポストコロナ」の問題である。
 国連のグテレス事務総長は、3月23日に「世界のあらゆる場所での即時停戦」を呼びかけ、国連加盟国約70カ国からすぐに支持が表明された。また、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、4月12日、バチカンのサンピエトロ寺院で復活祭(イースター)のミサをおこない、新型コロナウィルスの感染拡大にともなう危機に対応するために、紛争を終わらせ、世界が連帯するよう求め、「今は武器をつくり売買すべき時ではない。武器ではなく、命を救うために巨額を費やす時だ」と強調した。前述の国際NGOネットワーク「ICAN」の算定では、核保有国9か国の2019年1年間の核兵器関連予算は約7.8兆円にのぼり、アメリカはその約半分を占める3.8兆円であった。つづいて中国、英国、ロシア、フランスの順になる。今回の新型コロナウィルスの感染者と死者が突出して多かったのは、アメリカであり、つづいてロシア、英国、フランス、中国の順(5月21日現在)でいずれも感染者、死者数で世界の上位を占めたことは周知のとおりである。国連の安全保障理事会で拒否権をもつ米・英・仏・ロシア・中国の五大国はすべて核兵器保有国であり、2017年に国連で採択、調印された「核兵器禁止条約」に反対した。これらの大国は、今回のコロナ・パンデミックで「核兵器ではウィルスを守れない」「武器・軍隊ではウィルスを防御できない」ことを思い知らされたであろう。
 今回のコロナ・パンデミックは、人類を救うのは幣原が憲法九条に託した非戦・非武装の実現しかないことを再認識する契機となっている。憲法九条をもつ日本国民には、憲法九条の理念を国連憲章にして効力をもたせ、核兵器禁止条約にもとづく核兵器廃絶、ついで全世界各国の軍備全廃を実現させるための運動を世界に広めていくことが求められているように思う。それが日本国憲法前文に謳われた日本国民が「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」道の実践である。 

◆笠原 十九司(かさはら とくし)さんのプロフィール
  
 1944年群馬県生まれ。最終学歴:東京教育大学大学院修士課程 文学研究科東洋史学専攻 中退。学術博士(東京大学)。都留文科大学名誉教授。専門分野は中国近現代史、東アジア近現代史。主著に『南京事件』(岩波新書)、『南京難民区の百日』(岩波現代文庫)、『日本軍の治安戦』(岩波書店)、『海軍の日中戦争―アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(平凡社)、『日中戦争全史(上・下)』(高文研)、『増補 南京事件論争史』(平凡社ライブラリー)、『憲法九条と幣原喜重郎―日本国憲法の原点の解明』(大月書店)など。



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