はじめに
小林多喜二は小説「一九二八年三月十五日」で特高による拷問の暴虐ぶりをあばくとともに、「母たち」(『改造』一九三一年一一月)では北海道の「十二月一日事件」(一九三〇年)を題材に、再建中の労働運動関係者の検挙から公判に至る過程に翻弄される母たちの群像を描いた。判決の日、「被告は今後どういう考か? これからも共産主義を信奉して運動を続けて行く積りか、それとも改心して、このような誤った運動をやめようと思っているか?」という裁判長の質問に各被告が答える姿に、傍聴席の母たちは一喜一憂する。「共産党被告中の紅一点!」の「伊藤」の母は、娘の「私は今でもちっとも変りません」という非転向の答えに「涙を一生ケン命こらえ」、「矢張り仕方がないんでしょう」とつぶやく。
「十二月一日事件」は日本労働組合全国協議会系の労働運動に対する弾圧で、四八人が検挙され、二八人が起訴されたが、そのなかには小樽での親しい友人である寺田行雄や伊藤信二らが含まれていた。この「北の国の吹雪」(中野鈴子宛書簡、三一年二月四日)を憂慮した多喜二は、友人たちにも、自らにも襲いかかいつつある治安維持法がもたらすものに思いを巡らし、ここでは残された母たちの心情をさまざまに描き出そうとした。
小論では、治安維持法がどのように多喜二に襲いかかったのか、あらためて検証してみよう。
一 三・一五事件と四・一六事件で見たもの
多喜二が治安維持法を意識したことを確認できるのは、一九二七年四月一〇日の「日記」である。「京大学生事件」と「朝鮮の共産党」などをあげて「多事!」と書くのは、治安維持法違反を問われた二つの裁判について深い注意を払っていたからである。まもなく小樽社会科学研究会に加わり、社会主義への「躊躇」を乗り越えていくが、社会変革の実現のためには治安維持法と対峙しなければならないことを認識したと思われる。しかし、それはまだこの時点では観念的な理解にとどまっていた。
いうまでもなく治安維持法とそれを武器に猛威を振るう特高警察を実感したのは、一九二八年の三・一五事件であった。「北の国の小さな街から、二百人近くの労働者、学生、組合員が警察にくゝり込まれ」、「反植民地的な拷問」が加えられていることに、「只事」ではない衝撃を受けた。その「煮えくりかえる憎悪」を原動力に「残忍な拷問」の実態を詳細に描き出し、「あらゆる大衆を憤激にかり立て」るために(以上、「一九二八年三月十五日」『若草』一九三一年九月)、小説「一九二八年三月十五日」は書き上げられた。
『戦旗』にこの小説が発表されたことも加わって、多喜二の行動は特高警察の監視下におかれた。二八年一二月六日付の斉藤次郎宛書簡に「俺は今、小樽での有力な「要視察人」になっている」として、「所謂「特高」なるものが出入りすることひどい」と書いている。
最初に多喜二に特高が直接襲いかかったのは、二九年の四・一六事件直後であった。四月二〇日、若竹町の自宅は家宅捜索を受け、多喜二自身も拘引されたが、このときはすぐに釈放された。五月二三日付の蔵原惟人書簡には「紙一重の危さであった」とある。小樽の労働運動が根こそぎ弾圧されたために、多喜二は「蟹工船」や「不在地主」を発表する一方で、実践運動に深く関与していた。伊藤信二らとともに小樽労働運動の再建を担い、一二月初旬には「全協小樽産業別労働組合組織準備会結成に際し、仝組合の拡大の為め、戦旗、第二無新、労働新聞等の配布網を確立すると共に、犠牲者救援運動をも起すべく協議し」たと北海道警察部特高課編『本道に於ける左翼労働運動沿革史』(一九三一年)は記載する。のちに「地区の人々」のなかで「その再建のために「一人」が運動を始めると、その十倍もの人数の「特高係」に附き纏われ」と記すのは、この実体験が踏まえられている。
二九年一二月には、ナップ小樽支部をともに結成した友人で、四・一六事件で検挙・起訴されていた風間六三と札幌刑務所大通支所で面会し、札幌地方裁判所における判決言渡しを傍聴している。風間宛に「法廷での態度、小児病的なところもなく非常によかった」と書き送っているが、この傍聴により多喜二は治安維持法裁判の実際と思想検事の存在を目に焼き付けたはずである。のちに「共産党公判傍聴記」に記すような「法廷で椅子を振り上げたり、格闘をしたりした」(『文学新聞』三一年一〇月一〇日号)場面は、別の日の公判だったかもしれない。いずれにしても、「母たち」や「安子」の法廷の場面を描く際の参考にされただろう。
二 一九三〇年の検挙から出獄まで
多喜二は一九三〇年三月に小樽から東京に出たあと、五月中旬、『戦旗』防衛巡廻講演のために向かった関西地方で、二度目の特高の襲撃を受けた。二〇日、特高が戦旗社を襲い、二一日には村山知義を、二四日には中野重治を共産党資金援助の容疑で検挙する。「五・二〇シンパ事件」と呼ばれるプロレタリア文化運動への弾圧で、多喜二は二三日に大阪島之内警察署で検挙された。その最初の留置場体験は、「飴玉闘争」(『三・一五、四・一六公判闘争のために』、三一年七月)で「大阪の留置場は半分地下室に埋まっていて、窓もなく、昼でも赤ぼけた電燈がついている」と描いたものだろう。
六月七日に釈放されるまで、一六日間の拘留中に多喜二は手ひどい拷問を体験する。九日付の斉藤次郎宛書簡では「竹刀で殴られた。柔道でなげられた。髪の毛が何日もぬけた。何んとか科学的取調法を三十分もやらせられた。とうとう検事局まで行って、ようやく許されてきた」と知らせる。江口渙『たたかいの作家同盟記』上巻によれば、島之内警察署の特高係は「お前は「三・一五」という小説を書いて、おれたちの仲間のことをある事ない事さんざん書き立てやがって、ようもあんなに警察を侮辱しやがったな」と脅し、拷問を加えたという。「検事局まで行って」とあることから、共産党への資金援助を治安維持法の目的遂行罪に問われて警察から検事局に送検されたものの、不起訴になったのだろう。島之内警察署における検挙と拷問は、やや勇み足的に小説「一九二八年三月十五日」に対する報復としてなされたのかもしれない。
東京に戻った多喜二は、六月二四日、警視庁特高課により立野信之方で立野とともに検挙された。杉並・巣鴨・坂本の三警察署をたらい回しにされて取調べを受ける過程で、再び拷問を加えられるが、それは小説「独房」における描写――「二三度調べに出て、竹刀で殴られたり靴のまゝで蹴られたり、締めこみをされたりして、三日も横になったきりでいたこともある」というものであったろう。事件に対する報道が解禁された際の三一年五月二一日付の『東京朝日新聞』には、多喜二に対する「当局の取調べはもっともしゅん烈であつたため、出所後顔面筋肉の一部が硬直してしまつたといわれている」と報じられた。その「もっともしゅん烈」とは、やはり三・一五事件の拷問の実態を描き出したことと関連するだろう。
警察での取調べ後、多喜二は治安維持法違反の被疑者として東京地方裁判所検事局に送検され、検事による訊問――警察署の「三階に上がっていくと、応接間らしいところに、検事が書記を連れてやってきていた。俺はそこで二時間ほど調べられた。警察の調べのおさらいのようなもので、別に大したことはなかった」(「独房」)――を経て、八月二一日に起訴となり、豊多摩刑務所に移送された(正式には拘置所に入る)。被告人として予審と本公判を待つ身となった。なお、多喜二より約一か月前に検挙されていた中野重治の場合、その起訴は七月三一日だった(保釈も多喜二より約一か月前となる)。
治安維持法違反はもとより刑事事件では、警察段階においては「聴取書」が、検察段階と予審段階においてはそれぞれ「訊問調書」が作成されていくが、当然ながら多喜二の場合にもそうであったはずである。残念ながらそれらは残されていないが、「五・二〇シンパ事件」関係者の警視庁「聴取書」を参照することができる。京都大学人文科学研究所に所蔵されている一九三〇年分の「サ行」と「タ行」の約四〇名分中に、壷井繁治・立野信之・佐野碩らの「聴取書」が含まれていた。残念ながら、多喜二「聴取書」もあったはずの「カ行」は所蔵されていない。これらは拷問付きの取調べによって作成されたものではあるが、その内容自体は警察の作為や捏造、あるいは聴取される側の迎合などは少なく、各被疑者は総じて被疑事実を認めたようである。
聴取の順序は「思想ノ推移」に始まり、「共産党ノ認識」や「戦旗社ノ目的ト任務」などが追及されるが、取調べの焦点は「党運動資金ノ提供」関係にあった。その点で、とくに多喜二と同時に検挙された立野の「聴取書」(七月一日)が興味深い。立野の取調べにあたったのは、のちに多喜二虐殺の当事者となる中川成夫である。立野は「党運動資金ノ提供関係」について、三〇年二月上旬、村山知義方で村山・蔵原・壷井・中野・永田一脩が協議し、「小林多喜二ノ「蟹工船」ノ印税ハ戦旗社ニ其処分ヲ一任イタシテアル故、党ノ方ニ廻シテモヨイ」ことで合意したと供述する。単行本として『蟹工船』は戦旗社から三度にわたって刊行され、発行部数は三万五千冊にのぼったが、小樽在住の多喜二は印税の使い方を戦旗社に「一任」していたようで、その意向にそって蔵原・立野らは印税の一部を党運動資金として提供することを決めた。
これに関連して、壷井繁治「聴取書」には、「党運動資金ノ提供関係」の一つとして壷井が提供した資金の一部について、三〇年一月中旬、「五十円ノ金ハ、小林多喜二君ガ東京ニ来ル前ヨリ蟹工船ノ印税全部ヲ戦旗社ニ寄付スルカラ適当ニ使ッテ貰ヒタイト云フ話デシタカラ、私ハ此ノ印税ノ内五十円ヲ借リテ、私個人トシテ党ノ方ニ出シタノデアリマス」としている。多喜二の一任を前提に、壷井が借金をするかたちで党への資金援助がなされたことは事実であろう。
立野はもう一つ、多喜二からの資金提供について、次のように供述している。
小林多喜二君カラ百円受取ツタ関係デアリマスガ、之レハ小林君ガ永田君カラ話ヲ聞キタルモノト思ヒマスガ、五月初旬頃封筒入ノ金百円位ヲ封シタ侭私ニ出シテ、永田君ガ来タラ渡シテ呉レト言ツテ出シタノデ、私ハ之レヲ預ツテ居テ永田君ニ渡シマシタ
小林君ニハ私ガ出金サセル様ニ直接交渉シタ訳デハアリマセヌ、キツト永田君直接ト思ヒマス、然シ小林君ハ本年四月初旬北海道カラ上京シテ私ノ家ニ泊ツテ居リマシタカラ座談的ニハ「党ガ金ニ困ツテ居ル、ナツプ関係者デ金ヲ出シテ居ル者モアル」ト云フ様ナ話ハ致シマシタ
こうした立野や壷井の供述にもとづき、多喜二もきびしく追及されたことは間違いない。この資金提供について、立野・壷井らと同様に多喜二は認めただろう。送検直後、検事による取調べが「警察のおさらいのようなもの」であったことは、多喜二が警察での聴取内容をおおよそ肯定したことをうかがわせる。豊多摩刑務所からの田口タキ宛の最初の書簡(九月四日付)で、「裁判になるまで、前例を見ると二年以上もかかるらしい」と書き送ったのも、有罪を予想して長期の獄中生活を覚悟していたからと思われる。
小説「独房」によれば、豊多摩刑務所に移送される直前に「裁判所に呼び出されて、予審判事から検事の起訴理由を読みきかせられた。それから簡単な調書をとられた」とある。戦前には本公判に付すかどうかを実質的に審理する予審制度があった。一般的に第一回目は簡単な人定訊問と検事の起訴事実への認否を問うことで終わるが、ここでも多喜二は起訴事実を認めたと思われる。「独房」では、その四か月後、年末の「寒い冬の朝」に予審廷に「出廷」するため、刑務所から裁判所までの往復の道中風景が描かれる。予審訊問が終了すると、予審判事は本公判に付す旨の「予審終結決定」を作成し、有罪が確定すると、次は本公判の段階となる。多喜二らの「予審終結決定」は残されていない。
ただし、東京地方裁判所における三・一五事件や四・一六事件などの予審が長引き、党中央部の統一公判はまだ開始されていない段階であり、多喜二らプロレタリア文化関係者の公判日程の目途は立たない状況となる。おおむね党運動資金の提供の事実は多喜二も認め、予審も終結したため、壷井や村山・中野らよりやや遅れながらも三一年一月二二日に保釈となった。中野の場合の保釈金額は四〇円だったので、同程度の保釈金を納付したと思われる。
警察「聴取書」の最後では被疑者の「将来ノ決心」が問われる。壷井らの供述を参考に多喜二の「将来ノ決心」がどのようなものだったか、推測してみよう。八月二一日の二回目の聴取で、壷井は「現在正シイト信ジテ居ルマルクス主義思想ヲ棄テルコトハ絶体(ママ)ニ出来マセン、従ツテ今後必要ニ応ジテ私自身ニ運動ノ部署ヲ課セラレタナラバ、自分ノ力ノ許ス限リ其ノ仕事ヲ遂行シテ行ク考ヘヲ持ツテ居リマス」と答えている。立野は「私ハ今後党直接ノ行動ハ全然ヤラナイ積リデアリマス、然シ現在ノ作家同盟ニ居テ芸術活動ヲ続ケテ行キタイト思ヒマス」と供述する。演劇運動の佐野碩は、「今後ハ党直接ノ仕事ニ就テハ充分謹慎致シマス、然シ現在ノ演劇活動ハ尚継続シテ行キタイ思ヒマス」(六月一〇日、中川成夫による聴取)とする。立野や佐野の場合、「党直接ノ行動」に加わらないという一歩後退の姿勢しながらも、プロ文化運動を継続することは明言する。
なお、文化運動以外では、「周囲ノ状況ノ変化、党又ハ同盟ノ自己ニ対スル決定等ニ依リ尚自分ガ運動ヲ継続シテヤツテ行ケルナラバ、進ンデ党又ハ同盟ノ為メニ活動シタイト考ヘテ居リマス」(堅山利忠、六月六日)のように運動実践を継続する供述もあれば、「共産主義ヲ理論ノ上カラ否定出来マセンガ……自分ガ刑務所ニ行ク事ニ依ツテ受ケル家族ノ打撃ヲ考ヘル時ハ、没落ノ譏リモ甘ンジテ受ケ、断然運動カラ手ヲ切ラウト思ヒマス」(佐々木美代子、五月八日)という実践運動からの離脱を表明する供述もあった。
意外なことは、まだ一九三〇年段階においては警察「聴取書」では(おそらく検察・予審の各「訊問調書」でも)、「非転向」の表明がありえたことである。まもなく司法処分における「留保処分」の運用が始まり、「転向」方策が効果を発揮していく段階では、「聴取書」や「訊問調書」においても「手記」においても、厳重な司法処分を免れて、警察限りの釈放や検察段階の不起訴、予審段階での免訴、本公判における執行猶予付の判決をかち取るためには、運動からの離脱表明だけでは済まず、思想の放棄、さらには日本精神への帰依までが求められていく。そうした「転向」全盛期と比較すると、治安維持法運用の序盤においては「非転向」の表明が認められた。当局のプロレタリア文化運動に対する警戒感が相対的に薄かったともいえる。
そうしたなかで多喜二の「将来ノ決心」を予測すると、獄中書簡で見られる不屈の姿勢や保釈後の精力的な創作・実践活動、そして三一年一〇月の共産党入党を考えれば、一歩後退した感のある立野・佐野よりも壷井および堅山に近く、「非転向」姿勢の堅持の表明がなされたといってよいだろう。
なお、この「五・二〇シンパ事件」に対する東京地裁の公判は三三年五月二五日から開かれ、七月八日に判決が下されている。治安維持法の目的遂行罪にあたるとして藤森成吉と立野信之が各懲役二年、後藤壽夫(林房雄)が懲役一年であった(いずれも控訴、『東京朝日新聞』三三年七月九日)。そして、一〇月三一日、同事件に関わった山田清三郎を東京地裁は懲役三年の有罪としたが、これには多喜二「蟹工船」を掲載した『戦旗』編集長としての新聞紙法違反が加わっていた(『社会運動通信』三三年一一月四日)。三四年二月、壷井繁治に対する判決はやはり新聞紙法違反が加わり(『戦旗』編集長)、懲役四年(未決拘留二〇〇日)だった。このようにみると、多喜二の「五・二〇シンパ事件」の刑期は山田に近い懲役三年程度だったとも考えられる。この段階では目的遂行罪の適用にとどまる(新聞紙法違反も加わる)。
三 一九三三年の検挙から虐殺まで
一九三一年一月二二日の保釈から、三三年二月二〇日の二度目の検挙と拷問による虐殺まで、わずか二年余であった。
三一年九月、多喜二はつづけざまに検束されている。九月三日のこととして、全日本無産者芸術団体協議会の機関誌『ナップ』一〇月号の編集後記は「作家同盟員の三人が無理由に検束され、即時戻つて来た」と記している。この三人のなかにおそらく多喜二が含まれていた。のちに須山計一が紹介するエピソード――「二三年前に、上落合の作家同盟の事務所から引つぱられた時の事だつた。彼はいきなり係りの高等係に向つて、「君達も商売柄俺をこうしてテロつたりするが、腹の底のどこかには、「アジアの嵐」にある銃殺を躊躇する士官みたいな気持ちがあるんだろう」。これにはスパイも一本まいつたとの事だ」(「作家・共産主義者として」『プロレタリア文学』三三年四・五月合併号)――は、この検束時の多喜二であろう。
そして、すぐ六日には群馬県で検束された。文芸講演会開催を前に、多喜二は中野重治・村山知義や地元の主催者とともに伊勢崎警察署に検束されたが、約一〇〇人の民衆の抗議で「奪還」された。「コンクリートの地下室に、丸太で囲んだ、猿の檻のような」留置場で、釈放を求めて多喜二は「丸太を叩き、床を踏み鳴らし、あばれ」(村山「多喜二の思い出」)たという。
ついで九月二〇日、上野自治会館の第二回「戦旗の夕べ」で演壇に立ったときも検束されるが、ここでも抗議運動が功を奏し釈放された。これらは予防検束といえるもので、法の厳密な運用でいえば警察犯処罰令、もしくは行政執行法違反の行政処分であった。
九月一五日、傍聴券を得るために深夜二時から並んで、東京地方裁判所で党中央部の統一公判(第一七回)を傍聴する。多喜二を含む一般傍聴人は九五人で、「相変ラズ満員」であった(ほかに特別傍聴人三八人、共同被告人及家族二二人)。はじめて佐野・鍋山ら共産党指導者の風貌に接した。
高橋貞樹の「農民運動」は前後三回におよぶが、この日は二回目で「(1)ブルジョア、プチブル、社会民主々義者、解党派ノ農民政策 (2)共産党ノ農民政策 (3)農民トプロレタリアノ利害問題 (4)共産党ノ農民運動史 (5)国際農民運動=クリスチンテルン (6)プロレタリアノ独裁カ共産党ノ独裁カ」(以上、辻参正『法廷心理学の研究』「司法研究報告集」第一五輯五、三二年三月)の順で陳述された。これを多喜二は興味津々で聞き入ったようである。「共産党公判傍聴記」(『文学新聞』一〇月一〇日号)には、高橋の陳述を「一節々々毎に釘でも打って行くような適確さで」と評するほか、公判全体の印象を「見かけはおとなしいが、きいていると、オレたちよりもずっとずっと進んだオレ達の先輩が、オレたちにいろいろタメになることを教えてくれていることがわかる」とある。一〇月には日本共産党に入党した。
三二年三月下旬から四月にかけて、再びプロレタリア文化運動関係者への弾圧が断行され、中野重治・村山知義・蔵原惟人らが検挙されると、多喜二は地下に潜行し、「満洲事変」に抗する創作活動とプロ文化運動の再興に奔走する。すでに三月上旬には「何としても不自由の中でする仕事で」(若林つや子宛書簡)という状況であり、特高の追及を逃れる生活が始まっていたことが推測される。五月の日本プロレタリア作家同盟第五回大会に向けて、書記長としての報告準備に忙殺され、地下生活に入る四月には「身体さえコワしている」(阿蘇弘宛書簡)ほどだった。八月になると、田口タキに宛てた手紙(二〇日付)には「時には、なすの漬ものだけで三日も過ごすことがある」と記すほどの、きびしい生活を余儀なくされていた。
多喜二虐殺についてフランス共産党『ユマニテ』(三三年三月一四日)が「過去数ヵ月間に彼は決然として極東における帝国主義的略奪戦争および反革命戦争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった」が報じるが、それゆえに多喜二への特高の追及の網はますます迫っていた。評論「八月一日に準備せよ!」(『プロレタリア文化』三二年八月)に記した、「戦争とファッシズムを強行しつつある軍事的=警察的反動支配」が自らに襲いかかりつつあることを実感していた。三三年一月に会った小樽時代の友人風間六三に対して、円タクに乗っている際、「毛利の車と一しょに停止して、顔をみられたと観念したが、先方が気づかず発車してしまった」というエピソードを語っている(風間「一九三三年一月」『小林多喜二全集』月報6)。警視庁の特高課長毛利基を多喜二は知っていた。
そして、三三年二月二〇日の検挙は、短時間で拷問死に至る。築地警察署から担ぎ込まれた前田病院の前田博士の談話を『社会運動通信』二月二三日号から引用しよう。
左前頭に指頭大の擦過傷が二つあり、又首の左側に二ヶ所、左の手首にも軽い擦過傷があり、左右の大たい骨のあたりには皮下溢血があつた、胸部には別に何の異常はみられなかつた、こんな次第だから死因はと追究されても今の所不明で、結局心臓麻痺によるものとより外考へられません、私の方へ来たのは午後七時頃であつたと思ふが、その時にはもう脈もなかつたし、口辺にケイレンがあつた位です、カンフル食塩注射を行つたが、吸収する力もなかつた。
日常的に築地署と関係が深いためだろう、警察発表と矛盾しない談話に限られた。
その後の『社会運動通信』は、「小林多喜二告別式に 当局の徹底的弾圧 弔問者全部が検束の厄に遭ひ 淋しくだびに附される」(二月二四日)、「三、一五記念日を期し 小林氏労農葬挙行 警官百五十名を動員して厳戒 九十二名検束さる」「小林氏原作の「沼尻村」上演禁止 俳優五十数名を罐詰」(三月一七日)と報じている。早くも四月三〇日付では八面の上半分に、日本プロレタリア作家同盟編輯・発行『小林多喜二全集』全八巻の広告が載る(第二巻のみ刊行、中断)。
日本労農弁護士団の一員として布施辰治らと活動し、三三年九月一三日に検挙された窪田貞三郎の予審訊問調書が興味深い事実を伝える。一つは労農弁護士団として多喜二労農葬に関わったことが、布施や窪田らの治安維持法違反としての目的遂行罪の構成要件の一つに加えられていたことである。布施はこの労農葬実施の副委員長となった。
第一一回(三五年二月一三日)の訊問では、労農葬当日の様子が次のように供述される(「治安維持法違反被告事件 予審訊問調書写」、同志社大学人文科学研究所所蔵)。
当日ハ弁護士団カラ先ツ神道、大森、河合、松岡等ノ団員ヲ築地小劇場ニ派遣シ、又私ト布施、三浦両弁護士ハ品川ノ小林多喜二ノ母ノ宅ニ行ツテ多喜二ノ遺骨ヲ会場ニ運フ役割ヲ勤メル事ニナリマシタカ、私ハ当日小林多喜二ノ家テ品川署ニ検束サレ小劇場ノ方ノ葬儀ニハ参加出来ス、又小劇場ノ方ニ行ツタ団員モ葬儀ニ参加スルニ至ラス、警官ノ為ニ会場カラ帰ツタト云フ話テス
次に窪田は予審判事から「右小林多喜二ノ死亡ニ付テ告訴提起ノ依頼ヲ受ケテ神道寛次ニ更ニ之ヲ転嘱シタ事ハナカツタカ」と問われて、多喜二の弟三吾と義兄佐藤藤吉から依頼されて資料を受けとり、神道弁護士に転嘱したものの、「証拠薄弱ノ為、神道弁護士ノ手許テ其侭ニナリマシタ」と答弁している。このことはこれまで述べられることのなかった事実である。弟三吾と義兄藤吉の連名での依頼からみてそれは母セキと姉チマの意志でもあったはずで、特高の非道さに小林家一同が強く憤り、泣寝入りをせずに抗議行動に踏み出そうとしたことを意味する。しかし、築地署の密室でおこなわれた拷問であり、遺体の正式の解剖がすべて阻止されたこともあり、おそらく弁護団の「証拠薄弱」という判断によって、この果敢な告訴提起の試みは涙を飲んで中断せざるをえなかった。
特高による拷問の告発の事例としては、戦後一九四七年四月の「横浜事件」被害者によるものが知られるが、実は多喜二虐殺の三か月余り前の三二年一一月に岩田義道が虐殺された際に、形式的に岩田の両親が被害者として、警視庁の毛利特高課長や鈴木警部らを殺人罪・凌辱致死罪で東京地方裁判所検事局に告訴しようとしたことがあった。これは弁護士の布施辰治らを中心となって企図されたもので、実際の手続は若手の青柳守雄弁護士があたった。その際、取調べ中の病死という警察発表を否定する東京帝国大学医学部病理学教室の三田村篤志郎博士のもとで解剖に付され作成されていた岩田の遺体の「検案書」(解剖所見書)が提出されていた。結果的にこの告訴は受理を前に岩田の両親に検察などの圧力が加えられたために、告訴取り下げというウヤムヤのかたちとなって終わった(詳しくは青柳守雄『治安維持法下の弁護活動』)。
おそらくこの岩田虐殺に対する告訴を布施弁護士らから聞かされたことも一助になって、多喜二の残された遺族は告訴による責任追及を決意したはずである。弁護士らが多喜二の遺体の正式の解剖に奔走したのは、特高警察に対する告訴の証拠書類として不可欠という判断があったと推測されるほか、その阻止に特高側が躍起となった理由もそこにあったと思われる。岩田虐殺時の告訴提起を教訓に、特高側は告訴そのものの動きを封じ込めてしまった。
地下に潜行しながら活発な創作活動を展開する多喜二に対して、特高が「怒りとにくしみ」を増大させていたことは、三三年二月初旬とされる、警視庁特高課のナップ係中川成夫が江口渙に言い放った「おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは逆賊だ。そんな逆賊はつかまえしだいぶち殺してもかまわないことになっているんだ。小林多喜二もつかまったが最後いのちはないものと覚悟をしていろと、きみから伝えておいてくれ」(『たたかいの作家同盟記』下巻)という一節に明らかである。それを無慈悲に実行してしまったとはいえ、さすがに検挙当日に警察署内で拷問死に至らしめてしまったことは、特高にとっても実は望ましいことではなかった。ましてや治安維持法にもとづく司法処分による共産主義運動の逼塞化に自信を深めていた思想検察にとっては、おそらく特高の失態という認識ではなかったか。
もしも多喜二が虐殺に至らず、送検・起訴・予審・本公判という順序を経て司法的処断がなされたとすれば、どの程度の判決が下されたといえようか。
そうした推測を加えるうえで、手がかりとなるのは三二年四月にあいついで検挙された東京地方裁判所による中野重治・蔵原惟人・村山知義への判決である。いずれも共産党に入党しており、目的遂行罪の適用より重くなるが、活動状況の違いがあってか、判決時期と有罪の程度は異なる。中野の場合、五月末に五・二〇シンパ事件の保釈が取消しとなり、保証金が没収されている。三四年三月の判決は懲役四年、未決通算四〇〇日だった。蔵原は予審終結が三四年七月で、判決は三五年五月、懲役七年である。三三年一二月の村山の判決は懲役三年となるが保釈が認められ、三四年三月の控訴審判決では懲役二年、執行猶予三年となった。中野は運動からの離脱という転向状況が考慮されているのに対して、蔵原は非転向のままだったために七年というかなり重い刑期となった。
このようなことから推測を重ねると、存命であったとすれば多喜二が非転向を貫くことは確かであろうから、その有罪判決は蔵原に近い五年から一〇年の間の刑期になったのではないだろうか。党加入の事実に加えて、プロ文化運動において創作面でも組織面でも重要な役割を果たしていると認定されたと思われる。
三三年一二月二三日付の『社会運動通信』からもう一つ。「共産党検挙の六氏に功労賞」という記事では、警視庁特高課警部の中川成夫らに「第四次共産党一〇・三〇の大検挙に際し殊勲を立てた」として警察功労賞が授与されるとある。一〇・三〇大検挙とは、三二年のいわゆる熱海事件を指す。
四 西田信春の虐殺死とその隠蔽
次の獄中書簡をお読みいただきたい。
僕はここへ来てから僕を小さい時から可愛いがつてくれ、そして僕の欲するがままに、本当に自由に、不平がましいこと、干渉がましいこと何一つ云つてくれるでもなく、勉強させてくれ心から僕を信頼しきつて居て下さつた父上の恩をつくづくと顧みて、自身の幸福であつた過去についてどんな言葉を以て報ゆるかを知らない。而も僕が長い年月の学問的結果が導いて行つた終局的な決意、理論は、悲しくも、かくも愛すると云ふことさへも許されない社会制度を更に更に深く心に銘じなければならないのです。そしてそのことは此等凡てについての何の理解もないどころか反つて反対に極めて保守的の傾向の強い郷里や又年も次第にとられ時々は病さへもが訪れる父上の身を思ふ時には更に切なるものがある。……
寒く曇り沈鬱な冬の来たことをしみじみと知らせるやうな日が毎日とつづき、又冷い雨に終日暮れる日が二三日もつづいて、青桐の葉が真先に枯れ、銀杏の葉が風なきに散る、冬が来たのだ。
肉親への細やかな愛情と感謝に満ち、自然のわずかなうつろいにも敏く情緒豊かな描写は、一見、多喜二の獄中書簡と見まごうばかりである。これは、多喜二と同時代の、かつ同郷の西田信春の書簡である(一九二九年一一月一三日付の妹西田静子宛、石堂清倫・中野重治・原泉編『西田信春書簡・追憶』〔土筆社、一九七〇年〕)。
西田は多喜二より九か月ほど早く北海道岩見沢で生まれ、新十津川村で育った。札幌一中、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進学、倫理学を学ぶ一方、東大新人会の運動に参加し、卒業後は労働運動に従事した。日本共産党に加入後まもなく、一九二九年の四・一六事件で検挙・起訴された(引用の獄中書簡は市谷刑務所の独房で書かれている)。三一年一一月、保釈されると、四・一六事件公判対策の活動をおこなう。
三二年四月三日付の母かめと妹静子宛の書簡の一節――「雪も消えて百姓達はそろそろ畠仕事に忙しくなる頃でせう。永い冬の圧迫から解放されて輝く陽の光の下で、体一杯呼吸してゐる自然の万象の新鮮な姿が、今更のやうな力を以つて私の心にも蘇つて来ます」――からは、二年半余りの獄中生活の疲れを癒し、新たな運動に突き進もうとする西田の強く、明るい意志を感じとることができる。
三二年八月、党中央オルグとして派遣された九州地区で党再建活動を精力的に展開し、一二月には党九州地方委員会の成立に至る。特高による党九州地方委員会の一斉検挙を前に三三年二月一〇日、久留米駅前で検挙後、福岡警察署に移され、凄惨な拷問により一一日未明に殺された。多喜二虐殺はこの九日後だった。
九州二・一一事件以後、長く西田の消息は不明とされてきた。福岡での活動中、西田は岡や坂本などの変名を用いていたこともあり、運動の同志たちは「オヤジ」と呼びつつ、それが西田であることはわからなかった。それをよいことに特高は拷問死させた人物が西田であることを知りつつ、その死の隠蔽を図った。特高の西田拷問死を聞いた福岡地方裁判所検事局は、その隠蔽に加担して次のような対応策をとった。三二年一一月の党中央委員岩田義道の拷問死が大きな社会的な反響を呼んでいたことが影響してだろう、検察当局は「氏名不詳傷害致死被疑事件」として西田の屍体を司法解剖に付したのである。
その九州大学の法医学教室による「鑑定書」の結論に「殊ニ癒着性心嚢炎及ヒ之ニ続発セル心臓ノ肥大拡張並ニ胸腺実質ノ遺残等ヲ有スルモノハ屢々極メテ軽微ナル精神神経ノ刺戟ニヨリ急激ナル死ヲ招来スルコトアリ、本屍ニハ解剖上他ニ死因タルヘキ創傷及ヒ病的変化又ハ毒物ヲ嚥下セシ形迹ヲ認メス、加之上述ノ如ク本屍ハ急死ヲ招来スヘキ特異体質ヲ有スルヲ以テ恐ラク精神ノ興奮等精神神経ノ刺戟ニヨリ急ニ心臓機能ノ停止ヲ来シ死ニ至リタルモノト推測ス従テ病死トス」とあるように、拷問による致死を否定するものであった。検死に対して警察と検察の圧力が加わったことが、間接的な資料から推測できる。検死後の屍体は火葬されて、市の共同墓地に埋葬された。こうして、西田の死は闇に葬られてしまった。
西田の消息を追いつづけた関係者の努力によってこの検死と埋葬の経過が判明したのは、一九五七年のことであった。西田の虐殺は「精神ノ興奮等精神神経ノ刺戟ニヨリ急ニ心臓機能ノ停止ヲ来シ死ニ至リタルモノ」、つまり「心臓麻痺」によるものと認定されていたが、それは多喜二の虐殺に際して警視庁が「心臓麻痺」と発表し、拷問致死を全面的に否定したことと一致する。多喜二の遺体を目にした遺族は特高の告発を試みようとしたが、卑劣にも特高はそれをも妨害した。西田の場合、その遺体は家族のもとに帰ることなく、長い間消息不明とされ、待ちわびた両親はこの事実を知ることなく世を去らざるをえなかった。
大学卒業後、すぐに労働運動に入っていった西田について、おそらく多喜二は知る機会はなかったと思われるが、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』で一躍プロレタリア文学の旗手となった多喜二を、西田は敬意と同郷の親しみをもって眺めていただろう。二人は東京時代に同じ空気は吸ってはいたものの、それぞれの獄中生活が重なることもあって邂逅する機会は一度もなかったはずだが、たとえば中野重治・原泉夫妻や中野の妹鈴子(鈴子宛の獄中書簡がある)を介すると、多喜二と西田はかなり近いところに位置していたといえる。また、西田は岩田義道や野呂栄太郎とは面識があった。
ともにほぼ同時期に相次いで特高警察の犠牲となった岩田・西田・多喜二、そして野呂は、同じ政治・社会状況のなかで変革の意志をもちつづけ、それゆえに理不尽な死を強要されたといえる。
一九七一年二月二〇日の「多喜二忌」に、中野重治から送られた『西田信春書簡・回想』を手に、姉佐藤チマは「あの西田さんて方も、多喜二と同じにねえ、かわいそうだったんですねえ」「多喜二と同じにねえ、十日前だったんですものねえ、ひどいことをねえ」と眼頭を拭ったという(小笠原克『小林多喜二とその周圏』)。その非道な殺され方に、多喜二の死を重ねて、チマ・藤吉夫婦の悲しみと怒りは大きかった。
一九三五年頃、中野重治が西田の消息を探す父英太郎と会った際、「自分は父親であって、信春ないし諸君の政治活動、政治姿勢に指一つ触れようとも思わない。政府、警察方面からも信春をまもってやりたいと思っている」(中野「とびとびの記憶」『西田信春書簡・回想』)と告げられたという。西田信春の父も、多喜二の母セキも、ともにその息子の生き方に満幅の信頼を寄せ、その目指す社会の変革にも理解を示していた。妹静子は「今にして兄の意志が官憲の横暴と抑圧に若い生涯で中絶された事、その不運を共に悲しむ」と語る。
多喜二の拷問死を特高はその後も逆利用しつづける一方、西田の家族は「絶えず官憲の監視のもとに生活することを余儀なくされました」という(以上、西田静子「追憶」同前)。おそらく西田の拷問致死は福岡県特高および検察のなかで秘匿されたためだろう、消息不明となった西田を警視庁や北海道の特高は追いつづけていた。中野重治は、対米英開戦時、警視庁の取調べを受けた際、「西田信春のことはその後何かわからないかね……」と尋ねられたと回想する(「とびとびの記憶」)。西田の姪にあたる高井貞子は、「敗戦後でさえ時々警察と称する人間が消息の有無を尋ねて来たことがあった」という(「信春兄さんの思い出」同前)。
なお、西田については上杉朋史氏によるはじめての評伝『西田信春――甦る死』が原稿(遺稿)として残されており、現在、その刊行に向けて準備中である。
おわりに
多喜二の死は治安維持法体制が生み出したものである。そして、特高は多喜二の死を「心臓麻痺」と言い逃れる一方で、その後の治安維持法事件の取調べにあたり、多喜二の拷問致死を持ち出し、威嚇を加えることを常とした。その前提には、多喜二の死が拷問によるものであることが広く一般に知られているということがあった。
前述の全集刊行の最初の試みは中断しながらも、三五年から三六年にかけて三巻本の『小林多喜二全集』と『小林多喜二日記補遺』・『小林多喜二書簡集』が刊行されるともに、新潮文庫版『蟹工船・不在地主』や改造文庫版『蟹工船・工場細胞』(いずれも三三年刊)は一九四〇年前後まで版を重ねた。それらの読者の多くは多喜二の死が拷問の末の虐殺であることを知っていたであろう。そして、三〇年代後半には「国禁」ともいうべき多喜二の書を読み、保持することが自らにも危険が及ぶことを十分に理解していた。
しかし、そうした危険を顧みず、伏字だらけながらも多喜二を読む行為はつづけられた。そのなかで少数ながらも、多喜二に影響を受けて社会の矛盾や不合理に気づき、社会変革への希望と意志を育んだ人が存在した。たとえば、北海道生活綴方運動に参加していく文学好きの青年教師にとって、多喜二の著作はその思想形成のうえで一つのステップとなり、教員同士の相互啓発の手段となった。その一人、道東の厚床尋常高等小学校に勤務していた横山真の場合、同僚教師に「多喜二『蟹工船、工場細胞』、『書簡集』」などの「各左翼小説ヲ夫々貸与シテ左翼意識ノ昂揚ニ努」(「予審終結決定」、四二年六月、小田切正『戦時下北方美術教育運動』所収)めたことが、共産党の目的遂行行為にあたるとして治安維持法で断罪されていく。読書行為さえもが目的遂行罪とされることは治安維持法の拡張解釈の際たるものでフレームアップにほかならないが、ここでは多喜二の著作がそのように危険を導くことを承知しながらも、なお読まれ、学ばれようとしたことに注目したい。その意味で多喜二の著作は、その死後も治安維持法と対峙しつづけた。
西田信春がその短い生涯に残した鮮烈な印象は、肉親や友人、同志たちの間に刻み込まれ、長い時間をへて、その虐殺死とその隠蔽が明らかにされるうえで大きな原動力となった。
〔付記〕小論は近刊の拙著『治安体制の現代史と小林多喜二』(本の泉社)所収のものに(『治安維持法と現代』第37号掲載)、「四 西田信春の虐殺死とその隠蔽」を追加している。
◆荻野 富士夫さんのプロフィール
1953年、埼玉県生まれ。1975年、早稲田大学第一文学部日本史学科卒業。1982年、早稲田大学大学院文学研究科後期課程修了。1987年より小樽商科大学勤務。2018年より小樽商科大学名誉教授。
主な著書
『特高警察体制史―社会運動抑圧取締の構造と実態』(せきた書房 1984年 増補版 1988年)
『戦後治安体制の確立』(岩波書店 1999年)
『思想検事』(岩波新書 2000年)
『特高警察』(岩波新書 2012年)
『日本憲兵史』(日本経済評論社、2018年)
『よみがえる戦時体制』(集英社新書、2018年)