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古代より、「一衣帯水」の日本と中国 ― 日中国交回復40周年に『空海の風景』(司馬遼太郎1975年中央公論社)を読む ―

2012年7月16日


内田雅敏さん(弁護士)

1 はじめに

司馬遼太郎という作家はあまり好きではない。例えば司馬の『燃えよ剣』だが、土方歳三像が美しいヒーローとして描かれている。物語だからヒーローとして描くことに異論があるわけではない。ただ、それが余りにも美しく描かれているところに問題がある。例えば、捕えた「勤王の志士」古高俊太郎が、いくどか悶絶しながらも、口を割ろうとしなかったことに業を煮やした土方が、古高を梁から逆さに吊るして足の甲に五寸釘を打ち込み、百目蝋燭を立てて火を点ずるという凄惨な拷問をし、古高をして、〈烈風の夜を待って、御所に火をかけ、騒動に紛れ、中川宮と京都守護職松平容保を襲って殺害し、禁裏に兵を入れて、長州に主上の動座を仰ぐ「計画」が練られている〉と自供させた話は有名(村松剛『醒めた炎 木戸孝允』中央公論社)だが、司馬はこの凄惨な拷問の場面などは書かない。
『坂の上の雲』に至っては紙芝居みたいなもので、最後まで読み通すのが苦痛であった。同じ歴史小説でも大岡昇平、吉村昭らの作品の方がはるかに実証的だ。

2 世界の都長安 

だが、この『空海の風景』は違った。実に面白く読んだ。特に前半部分、空海が遣唐使の一員にもぐり込み、途中、暴風雨に巻込まれ、漂流しながらも、やっとのことで中国の福州にたどり着き、そこから、さらに難儀を重ねて、漸く長安に行くことができたこと、当時、長安は各地から多民族の集まる世界最大の国際都市であったこと、空海が留学生(るがくしょう)として長安で勉学し、国際色豊かな人士と交流したこと、同時に入唐した最澄に対するライバル意識、等々、それが史実であるかどうかは措くとしても、東西の文明交流史(交流というより、一方的な受け入れであったが)として興味深かった。司馬は当時の長安について、「長安には常時、四千の異国の使臣と随員が滞在していたというし、そういう異土の人と袖を触れ合いつつ行くことが狭斜を歩く楽しみであった。科挙の試験を受けるために上京してきている官吏志願者だけで、毎年千人、多い年は二千人を超え、そういう者もこの町に来る。そういう者の中には、異人種もいた。白い皮膚と赤い髪の西胡さえいたというから、長安が世界の都であることが、この狭斜の風景でも知ることができる。》と書く。
話は飛んで、現在の長安、すなわち、西安郊外から、秦の始皇帝が自分の死後を守らせるために作らせたという兵馬俑の大群が発見された。 私は、兵馬俑を見に、西安に足を延ばしたことがある。兵馬俑の大群は圧巻であったが、西安の街もよかった。北京と違い、イスラム教徒が圧倒的に多く、いかにも、シルクロードの起点(終点)の街といった風情があった。
唐は漢人だけでなく、他民族であっても、能力のある者はどんどん官に取立てたという。このことについて司馬は「六朝は貴族政治であるために門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚(たっと)び、皇帝の補佐をする人材は、ひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝は漢民族のみの皇帝であるという意識はなく、世界に住むすべての民族を綏撫(すいぶ)するという使命をもち、華夷のわけへだてをするということがない。」と書く。空海もその文才、詩才を大いに認められ、宗教者、文人は勿論のこと、皇帝とも付き合いがあったという。さらに司馬は「唐朝において大きく成立した、この普遍的原理を空海が驚嘆をもって感じなかったはずがない。彼がのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁でないに相違ない。」とも書く。
宗教も中国の道教、インドからの仏教(それも釈迦の教えを脱した密教)、イラン(ペルシャ)からの?教(けんきょう)(ゾロアスター教 拝火教ともいう)、ウイグル人のマニ教、そしてキリスト教など、ありとあらゆる宗教が混在していた。まことに世界最大の国際都市長安の名にふさわしい。司馬によれば、空海は長安の青龍寺に入り、真言密教の総師恵果(えか)和尚より、教えを受け、やがて、恵果和尚の正嫡として真言密教の最高位に就いたという。このあたり、史実かどうかは、仏教に全く不案内の私には判らない。しかし読んでいて楽しくなるのは間違いない。

3 唐文明に倣った日本の知識人

当時の日本の知識人らは日本国内の事情には疎かったが、唐の国の文化、官制、長安の街の様子について実に詳しかった。雪の日、中宮定子から香炉峰(こうろほう)の雪について尋ねられ、さっと立ち上がり、白居易(はくきょい)の詩「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」にちなんで、御簾をかかげて雪景色を見せた清少納言の機転はよく知られているが、定子も清少納言も実際に香炉峰を見たことがなかったことは勿論である。藤原定家の日記『明月記』にも日本の官制をあえて唐風の呼び方で表現するところが随所に出てくる。武士の台頭による乱世の12世紀、そんな世の動きに惑わされることなく、ひたすら詩歌の世界に浸ると、密かに日記中に宣言した、定家の有名な一文、「世情乱逆追討耳二満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ。」【注1】も、白居易の詩の一節「紅旗破賊吾ガ事二非ズ、黄紙除書我ガ名無シ」に倣ったものであったことを知ると、思わず、唸ってしまう。当時、唐風の言い方がトレンディであったのだ。だから遣唐使の一行も、長安の街を初めて見たにもかかわらず、歩きながら、「あれが何々門、あれが何々橋」と即座に口に出すことができた。現在の日本と米国との関係も似たようなものかもしれない。
さて、空海、長安に滞在することわずかに2年。この短期間に密教の秘伝を授けられ、日本に戻り、天皇の許しを得て、高野山に拠点を構え、真言宗を創設し、日本全国での布教に努めることになる。今日、お大師(空海)様の「足跡」は全国いたるところにある。
 承和2(835)年3月丙寅(21日)、空海、紀州、高野山においてその生を終える。空海が没したとき、弟子実慧は若き日に、空海が学んだ唐の青龍寺に「薪尽キ、火滅ス、行年六十二。嗚呼悲シイ哉」と書き送り、その死を伝えたという。司馬は
「仏教によれば人間の肉体は五蘊(ごうん)という元素の集まりであって、ここで仮に言うならば薪というも同じである。われわれ人間は、薪として存在している。燃えている状態が生命であり、火滅すれば灰に過ぎない。空海の生身(しょうじん)は、まことに薪尽き火滅した。この報をうけた長安の青龍寺では、一山粛然とし、ことごとく素服をつけてこれを弔したという。」
と書き、『空海の風景』を閉めている。
中国と日本は「一衣帯水」、すなわち、〈一筋の帯のような狭い水をへだてて近接している〉と表現されるように、古代から密接な関係があった。

4 日中共同声明の精神

今年は1972年、田中首相と周恩来総理による、日中共同声明によって、日中が国交回復してから40周年である。
 共同声明前文はその冒頭において「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。(略) 戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。日本側は過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」と述べている。そして本文において「両国のいずれも、アジア・太平洋地域において、覇権を求めるべきではなくこのような覇権を確立しようとする他のいかなる国、あるいは国の集団による試みにも反対する。」と宣言した。その後の両国の歩みは必ずしもこの精神を体現したものではなかった。日米安保の下、ますます米国に従属する日本。軍事大国化し、覇権国家となりつつある中国【注2】。そして尖閣諸島問題。尖閣諸島問題は日中共同声明及び6年後の日中平和友好条約締結(園田外相、搶ャ平)の際にも、その解決は将来の世代の知恵に待つ(搶ャ平)として「先送り」されて来た【注3】。
領土問題は国際問題であると同時に国内問題である ― 日本の首相が尖閣諸島は日本の領土でないと言ったら、売国奴、裏切者と言われるであろう。しかしそのことは中国でも同じである。― 故、領土ナショナリズムの陥穽に陥ると出口が無くなる。人類はこの領土問題ついて最近まで、戦争によって解決してきた。
1982年、南米大陸最南端、フォークランド諸島(アルゼンチン名 マルビナス諸島)の領有をめぐって、英国とアルゼンチンが戦争をした、フォークランド諸島紛争はまだ記憶に新しい【注4】。
領土問題は今日では、領土というより資源問題である。尖閣諸島はもともと琉球(沖縄)、台湾、中国福建の漁民たちの共同の漁場であった。尖閣諸島問題を昔ながらの方法、すなわち戦争によって解決するか(全面戦争はともかく、局地的な戦争を望む勢力が日・中双方にある)、それとも日中の共同管理によって解決するか、日中双方の知性、とりわけ日本の歴史認識が試されている。
『空海の風景』が語るように、日中は古代より、「一衣帯水」の間にある隣国であり、長い文化交流の歴史があることを忘れてはならない【注5】。

【注1】戦時中、何時、召集通知が来るかも知れない中で、せめて、25歳まで、生きられたらと思っていた慶応大学在学中の若き日の堀田善衛はこの一文を眼にして、「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」という生き方があるのかと愕然としたという(堀田善衛『若き日の詩人達の肖像』)。

【注2】中ソ対立を抱える中国は、共同声明、平和友好条約、いずれにおいても、対ソ連を意識して、「反覇権」条項を盛り込むことに執心した。逆に、日ソ交渉を意識した日本は、この「反覇権」を盛り込むことに消極的であった。搶ャ平は日本側を説得するに際して、「反覇権条項は、将来、中国が覇権国家とならないようにするためにも必要である。」とまで述べた。
【注3】日本が尖閣諸島を領土に編入したのは日清戦争の最中の1895年1月14日、その3ヶ月後の4月に下関条約。ちなみに竹島を編入したのは日露戦争の最中の1905年2月、9か月後の11月に日韓協約により韓国を保護国化。このようないきさつを考えると、日本の主張は「正しい」としても中国、韓国の言い分にもそれなりの理由があるということを理解すべきである。寸土を争って何度も戦争をして来たことを反省した仏独は、第二次世界大戦後に、欧州石炭鉄鋼共同体条約を締結した。これが今日の欧州共同体(EU)の基礎となっていることを教訓とすべきである。
【注4】国際法からすれば英国の主張が「正しい」であろう。しかし、地理的に見てみればアルゼンチンの言い分に理がある。何故、英国はこのように英国から遠く離れた島を自国の領土と主張するのか。香港は返還したではないか。弱肉強食の帝国主義時代の遺物である「国際法」という神話に疑問を呈すべきである。なおフォークランド紛争では、空母、原子力潜水艦などの軍艦、ミサイルなど近代兵器を駆使して戦われたが、他方で、昔ながらの白兵戦まで行われ、両軍合わせて、約1千人の兵士が亡くなっている。
【注5】2012年7月3日、日中の有識者(防衛、外交のОBら)らによる、「第8回東京―北京フオーラム」は「日中両国は一衣帯水の隣国であり、両国は2000年以上の友好関係を持ち、共通する文化背景を有する。アジアにおける歴史的、地政学的な主要な強大な隣国として両国間には共通利益が多く存在する。そのため私たちの対話は、現実に存在する課題に一喜一憂するのではなく、長期的に共生し、協力し、栄える道を探り合い、揺るぎない信頼関係を構築するという究極の目的を見失わず、常に問題を冷静に見つめ、長期的な相互利益の観点から、実際的な解決策を探るための真摯な努力を惜しまない。
 (中略)私たちは、領土などのデリケートな問題で、両国間の感情的な反発がさらなる悪化となることを防ぐため、議論を継続的に行うと同時に、こうした障害を乗り越えるための共同研究を進め、次回のフオーラムに報告することでも合意した。」とする、「東京コンセンサス」を採択した。フォーラムに参加した福田康夫元首相は「小異が大同を振り回してはならない。」と訴え、同じく、明石康元国連事務次長は「偏狭なナショナリズム」に継承を鳴らしたという。
 南京大虐殺はなかったと発言し、中国側から激しい批判を受けた河村名古屋市長、尖閣諸島を東京都が購入することにより、国に吠えずらかかしてやると息巻いている石原都知事らの煽動者とは異なり、地道に日中交流を続けている人々がいることを心強く思う。
 中国側も、【注2】で述べた、搶ャ平の言葉を思い起こし、かって、唐の時代にそうであったように、大国としての風格を示してほしい。  
 なお、尖閣問題については豊下楢彦「『尖閣購入』問題の陥穽」(「世界」8月号)を是非とも読まれたい。

補論 今年、2012年は日中国交回復40周年であると同時に、1952年のサンフランシスコ講和条約発効から60周年、1972年の沖縄復帰から40周年でもある。サ条約は日米安保条約とセットであった。このサ条約日米安保体制は日本国憲法とは、本来、相いれない性格を有するものであったにも拘らず日本国憲法と奇妙な「同居」をし、戦後日本の根幹を形成してきた。
 両者の分水嶺となったのが冷戦の進行であった。
日中国交回復も、沖縄復帰も、サ条約に大きく影響された。「領土」問題もこのサ条約・日米安保体制に起因している。
 日中国交回復に際して、日本側の最大の関心は、@ 中国が日米安保体制 を「容認」するか、A 中国が戦争賠償請求を放棄するか、の2点であった。サ条約14条は日本の戦争賠償義務を免除しているが、これは3条による沖縄の切り捨て、6条a項但し書きによる米軍の駐留の継続(占領軍としての米軍が在日駐留米軍と名を変えて引き続き占領状態を継続)の代償であった。サ条約による戦争賠償の免除は蒋介石との日華平和条約に引継がれ、日中共同声明でも維持された。長年に渡って、日本の侵略戦争に苦しめられた中国の民衆からすれば、日本に対する戦争賠償請求を放棄することは耐えがたいものであった。
 日清戦争後の下関条約で日本は、賠償金2億両(テール) (当時の日本の国家予算約8000万円の4倍強に相当する約3億6000万円)を中国から取り、台湾、澎湖島を取った。このことを日本人は忘れてしまっているが、中国人は忘れていない。しかし、 中ソ対立の中で、早急に日本と国交回復をする必要が毛沢東と周恩来をして決断させた。
 沖縄の米軍基地問題も同様である。米軍専用基地の74%が集中する沖縄の米軍基地の多くが日本の敗戦後、沖縄の切り捨てのなされている間に米軍の「銃剣とブルドーザー」によって、すなわち、サ条約の歪によって作られたものである。1947年9月、昭和天皇が連合国軍総司令部顧問宛に打った電報、―「沖縄を25年から50年間米軍が使用するのが、日米両国の共通の利益になる」― 昭和天皇の所謂〈沖縄メッセージ〉は忘れられてはならない。さらには、敗戦直前の1945年6月末、ソ連に米、英との和平仲介を依頼しようとしたときの和平案中もで沖縄が切り捨てられていた(豊下楢彦 『安保条約の成立』岩波新書)ことも忘れられてはならない。 
(2012年7月7日記)

◆内田雅敏(うちだ まさとし)さんのプロフィール

 1945年愛知県生まれ、1975年東京弁護士会登録。現在、日本弁護士連合会憲法委員会委員、関弁連憲法問題連絡協議会委員、東京弁護士会憲法問題協議会委員。東京女子大非常勤講師。専修大学非常勤講師。
 弁護士としての通常業務の外に、花岡事件(戦時中の中国人強制連行)、香港軍軍票の問題など戦後補償請求裁判、「西松建設中国人強制連行・強制労働事件」、「日の丸・君が代」処分問題などに取り組む。最近の担当事件としては、立川自衛隊宿舎イラク反戦ビラ入れ一審無罪判決、自衛隊イラク派兵違憲訴訟など。
 主な著書:「弁護士─"法の現場"の仕事人たち」(講談社現代新書)、「『戦後補償』を考える」(講談社現代新書)、「《戦後》の思考─人権・憲法・戦後補償」(れんが書房新社)、「憲法9条の復権」(樹花舎)、「懲戒除名─"非行"弁護士を撃て」(太田出版)、「敗戦の年に生まれて─ヴェトナム反戦世代の現在」(太田出版)、「在日からの手紙」(姜尚中氏との共著・太田出版)、「憲法9条と専守防衛」(箕輪登氏との共著・梨の木舎)、「乗っ取り弁護士」(ちくま文庫)、「これが犯罪?『ビラ配りで逮捕』を考える」(岩波ブックレット)、「靖国には行かない。戦争にも行かない」(梨の木舎)、「靖国問題Q&A」(スペース伽耶)、「半世紀前からの贈物」「戦争が遺したもの」(れんが書房新社)、「ここがロードス島だ、ここで跳べ」(梨の木舎)




 
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