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今週の一言

 

水俣病事件に取り組んで

2010年5月10日

坂東克彦さん(弁護士)

 

1 事実の見方
 司法試験合格後の1957年8月から1年半,私は司法修習生として横浜地裁に配属されて実務の修習をし,森文治判事のもとで民事裁判の教えを受けました。証人尋問に立ち会ったのち,森判事から「原告側と被告側との証人とで,証言の内容が違うが,片方が嘘をついていると思うか。」と聞かれました。私が返答に困っていると森判事は,「富士山も箱根で見るか,駿河で見るか,甲斐で見るかによって形も大きさも違う。同じように,証人も,その見方によって事実のとらえ方が違ってくる。裁判官は片方の証人が嘘をついているなどと決め込んではならない。それぞれの証言を吟味し,それを総合して裁判官としての富士山を描かなければならない。」と言われました。
  物事を見るときには予断を排除し,謙虚に総合的に事実を見ることがいかに大切であるかを教えられました。
2 新潟水俣病第一次訴訟
(1) 宇井純さんのこと
 1956年5月,熊本水俣病の被害が公表されました。誰も事件に興味を示さなかったなかで水俣のまちを歩き回っていたのが,作家の石牟礼道子さん,プロ写真家の桑原史成さん,そして当時 東京大学大学院生であった宇井純さんの三人です。
 宇井さんは,熊本大学の論文,熊本県・水俣市の諸資料,各紙の記事等をマイクロフィルムに収め,その成果を合化労連の機関紙「月刊 合化」に連載していました。その連載中の1965年に新潟水俣病事件が公表されました。
 宇井さんは直ぐに新潟に飛び,県の衛生部長の北野博一さんに熊本水俣病の情報を伝えました。北野さんは通産省・厚生省からの情報が全くないなかで,県下の昭和電工鹿瀬,ダイセル新井,青海電化,松浜ガス化学などのアセトアルデヒド工場の調査を行うとともに,阿賀野川の漁獲規制,妊娠規制,患者に対する生業資金・世帯更生資金の貸付などの措置をとっていきました。
 事件公表後,昭和電工は加害者であることを否定し,
 1967年,新潟で昭和電工を被告とする損害賠償請求訴訟を提起し,私は弁護団幹事長を務めました。宇井さんは持てる知識と情報を惜しみなく弁護団に提供し,みずから訴訟の補佐人として法廷に立ち,昭和電工が繰り出す証人に対する反対尋問を行い,最終弁論にも参加して被害者の救済を訴えました。
 宇井さんは,終生現場主義を貫き,水俣病の運動に大きな足跡を残しました。
 私が宇井さんから学んだことは,資料の見方についてでした。学者の論文を鵜呑みにすることなく,原資料に当るということでした。
(2) 北川反対尋問
 新潟の裁判で昭和電工は,原因は1964年の新潟地震の際に新潟西港倉庫に保管されていた水銀農薬が日本海に流れ出し,海流によって阿賀野川河口に到達し,8月上旬に塩水が川を遡る現象である「塩水楔」によって阿賀野川の下流水域を遡上し,汚染した魚を多食した住民が水俣病に罹患したとする「農薬説」を主張していました。
 私は,1970年4月,昭和電工が申請した横浜国立大学 北川徹三教授の反対尋問をおこないました。教授は,1964年6月の新潟地震で被災した市内の昭和石油の石油タンクから流れ出した石油が信濃川から阿賀野川河口に達して夕日を受けて光っていた写真と,阿賀野川下流の浅瀬が白く写っている写真とをつなぎ合わせ,それが新潟西港に保管されていた農薬が流れ出し,塩水楔によって阿賀野川を遡上した写真であると証言しました。
 反対尋問を準備している段階で,この写真は,防衛庁が新潟地震の被害状況を撮影した航空写真で,裏面に「6月27日」と撮影日が書かれており,教授が阿賀野川に塩水楔が遡上したとする8月上旬以前に撮影されたものであることに気がついていました。私は反対尋問で,教授に撮影日を示して証言の矛盾を追及しましたが,教授はこの質問に答えることができませんでした。このとき私はこの裁判の勝利を確信しました。  
 1971年9月,新潟地裁は昭和電工の主張する農薬説を否定し,原告勝利の判決を言い渡しました。
3 「水俣病」は終っていない
(1) 政治決着と弁護団長辞任
 1973年末の中東戦争がもたらしたオイルショックを機に日本は低経済成長期に入りました。これに合わせるかのように環境庁は,1977年と1978年の二度にわたって水俣病の認定基準を厳しく改定し,その結果,申請をしても水俣病と認定されないいわゆる「未認定患者」が急増しました。新潟でも未認定患者が1000名に達したことから,1982年,国と昭和電工を被告とする新潟水俣病第二次訴訟(国家賠償請求訴訟)を提起しました。
 この裁判は,原告らが水俣病患者であることを確定し,「第二の水俣病」を引き起こした国の責任を問おうとしたもので,私が弁護団長を務めました。
 1994年,村山富市内閣のもとで水俣病問題の「政治決着」がはかられました。
 それは,原告を「患者」と認めず,国の責任も曖昧にしたまま一人260万円の一時金を支払って事件を決着させようとするものでした。関西水俣病訴訟を除く熊本,新潟,東京,京都の被害者・弁護団,支援団体がこれを受け入れようとしていたなかで, 私はこの政治決着に同調できず,1997年,弁護団長を辞任し,30年間にわたって関わってきた水俣病訴訟から身を引きました。
(2) 2000年,私は『新潟水俣病の三十年−ある弁護士の回想』(NHK出版)を出版し,2006年には保管していた熊本水俣病を含む膨大な資料を新潟県に寄贈しました。これらの資料は,「県立人間と環境のふれあい館(新潟水俣病資料館)」に収納されており,いまその資料解説作業をおこなっています。
(3) 2004年,最高裁は関西水俣訴訟について環境庁が定めた認定基準を否定する判断を示しました。これを契機に,熊本,新潟で新たな訴訟が提起されています。
 新潟知事 泉田裕彦は,県独自の水俣病患者の救済・支援に積極的に取り組み,2009年に「新潟県水俣病地域福祉推進条例」を成立させました。この条例は,「認定基準」を設けず,水俣病の症状を有する者を認定審査会を通さずに経験のある医師の診断に基づいて水俣病患者と認め,その生活を支援しようとするものです。
 私は,県からの依頼で県条例案の提言・検討作業に参加し,現在,条例に基づく「新潟水俣病施策推進審議会」の委員を務めて県がおこなっている水俣行政を見守っています。
(4) いま政府は,「水俣病被害者救済特別措置法」を成立させ,一人210万円で水俣病問題の「最終的・全面的解決」をはかろうとしています。しかしその内容は,国の責任を明確にせず,裁判で闘っている原告らを患者と認めないまま金銭で問題を解決しようとした1995年の政治決着と本質的に変わらない「第二の政治決着」であり,最高裁が否定した認定制度の検討すらおこなわずに,またも水俣病事件の根本問題の解決を先送りしようとするものです。
 水俣病については,いまだに「認定制度」が患者救済の障壁になっています。最初の事件公表から半世紀以上も経ているにもかかわらず,被害の実態調査も十分になされていません。
 水俣病はまだ終っていません。
4 水俣での衝撃
 1968年正月,私は新潟の患者とともに初めて水俣を訪ねました。
 市立リハビリセンター病院で胎児性水俣病児に出会いました。14歳にも15歳にもなった子供たちがよだれをたらし,立つこともしゃべることもできず,「ウォー,ウォー」と言葉にならない声を出して私たちを迎えたのです。部屋の入り口で私は一瞬立ちすくみました。「誰がいったいこの子どもたちを!・・・」。全身に怒りが込み上げてきました。
 私が 40年以上にわたって水俣病事件に取り組んでこられたのは,この水俣での怒りに支えられてきたからです。

◆坂東克彦(ばんどうかつひこ)さんのプロフィール

1933 新潟県小千谷市生まれ
1955 中央大学卒業 
1959 第二東京弁護士会登録
1963 新潟県弁護士会に登録替え
1965 新潟水俣病事件に巡りあう
1967 昭和電工を被告とする新潟水俣病第一次訴訟提起 弁護団幹事長
1969 熊本水俣病第一次訴訟提起  第一次,二次,第三次各訴訟の代理人をつとめる。
1971 新潟水俣病第一次訴訟 勝訴(確定)
1982 国と昭和電工を被告とする新潟水俣病第二次訴訟提起 弁護団長 
1995 新潟水俣病第二次訴訟弁護団長辞任
2000 『新潟水俣病の三十年−ある弁護士の回想』(NHK出版)
2003 マイクロフィルム版 戦後日本公害事件史料集成 坂東克彦史料 出版 柏書房
2007 新潟水俣病問題に係わる懇談会委員
2009 新潟水俣病地域福祉推進条例 施行 
2010 新潟水俣病地域福祉推進審議会 委員



 
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