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「憲法を地方自治に生かす」

2009年5月11日

都丸哲也さん(元保谷市長、「九条の会東京連絡会」事務局代表)

―――都丸さんは1977年から4期16年間、東京・保谷市長を務められましたが、「憲法を地方自治に生かす」取り組みをされました。その内容と思いからお聞かせください。
(都丸さん)
 1967年に美濃部亮吉さんが東京都知事選に立候補した時、私はその政策となった基本理念=「憲法を都政に生かす」ということを都民に伝え、支持を広げる役割を担い、美濃部さんと都民を結ぶ蝶番(ちょうつがい)となりました。そこには新聞労連、出版労連、日放労の人たち、社会新報、赤旗の記者たちがスタッフとして参加し、私が責任者を務めました。
1960年代の高度経済成長政策は資本の利潤追求優先が先行し、労働者の賃金抑制、食料や医療など消費者物価の上昇、公共料金や教育費の引上げによる家計の圧迫などがすすみ、大気や水質の汚染、野放しの公害たれ流しで日本列島は公害列島と呼ばれ、生存権闘争が高まりました。
 美濃部知事は、国に先駆けて公害防止条例を制定して企業に規制をかけ、都民のくらしでは老人医療の無料化や妊婦検診無料化、無認可保育所助成など福祉優先政策を実施し、マスコミは「福祉元年」と呼びました。
私は保谷市民に推されて、1977年に市長に就任しました。私は美濃部都政に学び「憲法を市政に生かす」取り組みを、憲法の第8章に定められた地方自治の規定に従ってすすめました。
 私は市民参加を市政運営の基調にすえ、「住民自治」を具体的に推進する努力をしました。第一期目に「街づくり100人委員会」を呼びかけ(実参加70人)、その討議の結果を生かして市政の方向づけを行いました。それは市民の声を政策に反映させた第一歩でした。「団体自治」では、市内の特養ホーム長が長年にわたって国と都に個室化を要求し続けても認められず、相談をいただいた私はその要求に同調し、市独自の助成でそれを実現しました。
 私は、憲法を市政に生かすためには市民が憲法を知ることから始めなければならないと考えました。公民館で憲法講座を開講し、憲法学者の杉原泰雄先生などにお話をしていただきました。私は市民の皆さんに主権者としての意識を育んでいただくことが立憲主義の政治を根づかせるために重要であると判断したからでした。

―――都丸さんは市長になる前は地方議員でした。地方議員の選挙のときも、市長選のときも、住民の多くは地域の身近な問題への関心が高いと思うのですが、都丸さんはなぜ平和のための取り組みにも熱心だったのでしょうか。
(都丸さん)
 たしかに地方議員や首長の選挙のときには、住民は平和のことよりも地域の問題に対する関心の方が高いです。しかし、住民の安全・安心も憲法9条の平和的生存権が保障されることがその前提となります。
 その私の考え方の原点は、青春時代を戦争によって摩滅させられたことにあります。その時期、国民は「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、人間であることを中断されたのです。

―――平和のための具体的な取り組みの経験をお聞かせください。
(都丸さん)

市民に配布された憲法などの冊子
 保谷市では1982年に「憲法擁護・非核都市宣言」を議会で制定しました。非核自治体宣言都市は全国的に広がっていますが、「憲法擁護」を明確に掲げたものは東京都中野区と保谷市ぐらいではないかと思います。私は、絶対兵器ともいうべき核兵器の出現によって、これまで国家の独立と国民の人権を守る最後の手段として軍隊と戦争を容認してきた歴史は最早通用しない、平和こそが人権保障の前提と考えるようになりました。それが「憲法擁護・非核都市宣言」の意味だと考えます。
 私は毎年平和のための取り組みの予算を組み、広島や長崎での原爆被爆者慰霊式典に市民のみなさんとともに参加してきました。このような取り組みは私が退任して保守的な市政になっても継続されています。非常にうれしく思っています。
 私の退任後、保谷市は2001年に田無市と合併して西東京市になりました。西東京市域はアジア太平洋戦争の時、隣接の武蔵野市境にあった旧中島飛行機製作所(零戦という戦闘機の製作所)が米軍の標的となり、集中的な攻撃を繰り返えし受けました。その流れ弾が西武新宿線の柳沢駅・田無駅周辺に多数落ち、多大な被害を受けました。特に1945年4月12日は最大の被害を受けました。そこで田無市はこの日を条例で「平和の日」としました。それは条例第2号として西東京市にも引き継がれました。また、両市にあった非核平和都市宣言は市名ともになくなりましたが、市民の運動で西東京市も「非核・平和都市宣言」をすることになり、「平和都市宣言市民委員会」が設置され、そこが中心となって、平和のための学習会や映画会、広島・長崎への市民の派遣などのとりくみが引き継がれています。
 ただ、残念なことに「憲法擁護」という重要な意思は明記されませんでした。

―――都丸さんはいま、「九条の会東京連絡会」の事務局代表を務めておられます。「九条の会東京連絡会」の今後の活動についてお聞かせください。
(都丸さん)
 各地域や職域の「九条の会」はそれぞれが自主的に多彩な活動をしております。私たち連絡会からそこに、とかく口をはさむものではありません。連絡会はそのようなことをするところではありません。ただし、私は平和憲法の生命、「九条」の危機が生じるようなことがあれば、九条を守るために東京総行動が組めるような、日常的は意識の蓄積が出来るような素地を形成することが出きればいいなあと思っています。
 憲法改正の手続法が来年には施行されます。この4月から総務省が憲法改正手続きについてのリーフレットを作成し、各自治体での配布を始めています。今後ポスターも作られます。「九条の会」が全国に広がり草の根の運動を広げていることから、改憲勢力も“草の根改憲運動”をはじめています。日本青年会議所による全国いっせいタウンミーティングも行われています。このような時期だけに、ぜひ都内の「九条の会」が手を取り合って、インパクトのある取り組みを進めることができたらと思っています。

―――自治体の首長としての実践の経験もふまえた都丸さんのお話には重みを感じます。都丸さんの憲法への思いについて、最後に強調したいことをお聞かせください。
(都丸さん)
 アジア太平洋戦争を強行してきた人たちは、ポツダム宣言をつきつけられた際に「国体護持」にこだわり、受諾が20日間遅れました。この間に沖縄県民はもとより、広島、長崎の市民に計り知れない痛苦と犠牲を与えました。そして、戦争の責任は一億すべての国民にあると主張しました。日本国憲法制定過程でも同様に、「天皇不可侵」に固執しました。日本国憲法は、パリ非戦条約調印以降、世界の共和制を学んでいた先学や民権活動家の知恵とアジア太平洋戦争の中で国民に蓄積された知恵です。こんにち「マッカーサー憲法から自主憲法をめざす」と改憲派は首長していますが、そのような立論は歴史的に成立しません。日本国憲法は21世紀の人類の指針でもあります。
 憲法9条の平和主義の考え方を国は無視し、解釈改憲を繰り返してきました。国は憲法を守らず、立憲主義の考え方を踏みにじる状態が続いてきました。この状態をなんとしても変えていかなければならないと思います。

―――本日は有意義なお話をしていただき、ありがとうございます。今後とも憲法の考え方を広げるために、ともにがんばっていきたいと思います。

◆都丸哲也(とまるてつや)さんのプロフィール

1921年生まれ。1977年から4期16年間、東京・保谷市長。
現在、原水爆禁止東京協議会代表理事、非核の東京・自治体対策委員会責任者、日本AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)常任理事、「九条の会東京連絡会」事務局代表を務める。


 


 
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