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『吉野作造通信』で吉野作造と日本国憲法のかかわりを発信

2008年3月17日

永澤汪恭さん(仙台市在住・『吉野作造通信』発行人)

―――『吉野作造通信』発行の動機は何ですか。
(永澤さん)
 吉野作造は宮城県が生んだ俊英な思想家で歴史の教科書にも登場する人物ですが、吉野が生まれた古川や中学・高校時代に学び後の思想形成の土台となった仙台でも吉野に対する関心は弱く、まして吉野を自分の住む地域と結びつけて意識する人は少数でしょう。
 古川を訪れた高名な吉野の研究者が、吉野の郷里とは思われない程、人々に吉野が生きていないことに驚き、一寸ガッカリして帰られたと、「吉野先生を記念する会」会員の兄から聞き、これではいけないと思いました。
 地域の人々が、もっと吉野を身近に感じ、吉野の生き方に学ぶ、そんな機運を作りたいと思い、吉野の宮城県における足跡の調査と吉野を知る宮城県の人々からの聞き取りを行いました。それら掘り起こしの結果の報告と吉野の人と学問業績を紹介しようと思いつき『吉野作造通信』を発行しました。
 勿論この『通信』は、私一人で行ったのではなく、思いを同じくする宮城県歴史教育者協議会の仲間である一戸富士雄氏との共同調査と話し合いの結果誕生したものです。

―――発行資金はどうしたのですか。
(永澤さん)
 発行資金は、読者の寄付と購読料で賄っています。私のボーナスを覚悟していましたが、仲間から「それでは長続きしなくなる。吉野の研究と顕彰が目的なら、賛同者の理解と支持(連帯)を土台に、責任ある事業にすべきだ」との助言もあり、『吉野作造通信』発行募金お願いの文書を作成しました。
 その際「金持ち」の『通信』にならないように年間購読料を1000円とする形の資金づくりを考えました。

―――その結果はどうでしたか。
(永澤さん)
 先ず職場の方々から寄付や購読料が集まり始めました。地元の『河北新報』で紹介され、その効果で続々と寄付や購読料が寄せられてきました。号数を重ねる毎に支援者がふえ、読者も県外に広がり、シカゴ大学の図書館からも求められました。
 特に、吉野研究の第一人者松尾尊b(たかよし)先生のご紹介で共同通信の取材を受け、この『通信』が各地方紙に掲載され、遠くは鹿児島や徳島の方々からも激励やご寄付をいただきました。1986年の創刊号の発行から2007年の10号の発行まで20年間に亘り、『通信』発行を財政面で支えていただいた151名の皆様には心より感謝しております。

―――『通信』の10号の特集は「吉野作造と日本国憲法」でしたね。
(永澤さん)
 憲法学者の原秀成先生が、2004年3月に発行された大著『日本国憲法制定の系譜1 戦争終結まで』(日本評論社)の中で、初めて吉野作造の軍部批判が、日本国憲法制定に影響を及ぼしていたことを明らかにされました。これは吉野研究上の大発見です。
 1922(大正11)年、吉野は、それまでの軍部批判をまとめ『二重政府と惟幄上奏』という著書を刊行しました。吉野は、軍部が直接「惟幄」つまり天皇に上奏して、内閣や議会での審議を遮断することを批判しました。さらに吉野は、軍部大臣を大中将に限定する制度(軍部大臣武官制)により、軍部が内閣を操縦すると批判しています。
 原先生によれば、吉野の軍部批判は、吉野の死後米国留学生の武内辰治によって翻訳されアメリカの学者コールグローブに伝えられ、やがて1945年の英国や米国の対日政策に導入され、これがポツダム宣言第六項の軍国主義の除去となり、さらに日本国憲法第66条の「国務大臣は、文民でなければならない」という規定に結実化し、9条の「戦力」「を保持しない」という規定にも吉野の平和思想が反映されているとのことです。
 原先生は、このように、吉野と日本国憲法の直接的な関連を探知された他に、吉野が深く関係した明治文化研究会や吉野から学問上大きな影響を受けた鈴木安蔵についてくわしく、その大著で紹介されています。
 私は、原先生のご研究の成果に感謝と敬意を表し、『通信』の9号で鈴木安蔵を扱いました。明治文化研究会については第6号(1988年発行)で特集しています。

―――吉野作造の思想の積極的意義を伺います。
(永澤さん)
 私は、吉野の思想内容より、彼の行動(実践)とその効果(影響)に注目しています。
 例えば、吉野が提唱した民本主義についてです。吉野は「政治の目的が一般民衆の利福にあること」、そして「政策の決定が一般民衆の意向によるということ」の二点を民本主義の内容として強調しました。ただし「主権の所在は問わない」としたことから、その論理は曖昧で、妥協的で、矛盾を孕んでいましたから多くの論客から袋たたきに合い、大杉栄からは「盲の手引をする盲」と題して痛烈な批判を浴びせられ、東京帝大の政治学者が笑いものにされる始末でした。
 にもかかわらず吉野の民本主義論は『中央公論』を舞台に展開されたこともあり、インテリ層に普及・浸透していきます。何よりも注目すべきことは、大逆事件以降沈滞していた言論界に一石を投じ、知識人たちの論争に火をつけて大いに活気づかせたことです。
 吉野の活躍は、所謂大正デモクラシー運動の高揚に重要な役割を果たしたと思います。
 あまり一般に知られていないことですが、1918(大正7)年の右翼浪人会と行った立会演説会での吉野の奮闘が、大正言論界を救っているのです。
 その発端は、政府・検察それに右翼の大阪朝日に対する言論抑圧に対して、吉野が『中央公論』に「言論自由の社会的圧迫を排す」の一文を掲げたことに憤った浪人会は吉野糾弾の決議をし、吉野に面会に来たことに始まります。最終的に神田南明倶楽部で、吉野一人に浪人会側4人が舌戦を交わし、最後は両者の立場を相互に認め合う形で終わりました。
 この言論抑圧事件が起きた時多くの新聞や雑誌は沈黙していたといいます。つまり沈黙せざるをえない状況のなかでの吉野の言動でした。ここでも、吉野の論文や演説会の内容を言えば問題点もあります。がこの演説会は松本三之介先生ご指摘のような「自由な言論の意義とその強さについて人びとの認識を改めて呼び覚まし、デモクラシー陣営に自信と勇気を与えた」と言えます。この演説会を契機に吉野・福田徳三を中心に革新を志す知識人は「黎明会」に結集し、東大の学生は卒業生を巻き込んで新人会を結成し、社会運動に参加していきます。
 このように、吉野の勇気ある行動は、大正の言論活動を活発にさせる上で多大なる貢献をしていますし、革新的運動の担い手たちに絶大なる感化をおよぼしています。

―――日本国憲法への思いを聞かせてください。
(永澤さん)
 『通信』10号で紹介しておりますが、憲法学者の宮澤俊義は、ポツダム宣言は日本に民主政治の確立と、平和国家の建設を求めている、吉野先生が熱愛する祖国のために主張せられたのも、まさしく民主政治の確立と平和国家の建設であると敗戦の翌年に記しています。それを原先生は立証されました。
 鈴木安蔵が起草した憲法研究会案がGHQ案のモデルになったことも明らかです。
 日本国憲法は、その制定過程にかかわった国内外の人々の平和と人権を大切にしたいという思いが結実化したものです。
 日本の1920年代ごろからの言論活動や研究や権力とのたたかいが日本国憲法を生む土壌をはぐくんだことを知ると、今の日本国憲法が、いとおしくさえ感じられ、しっかり守り、強く育てなければと思います。

◆永澤汪恭(ながさわ ひろやす)さんのプロフィール

1941年、宮城県古川市(現大崎市)生まれ。
高校教員として宮城学院高校等で教鞭をとり、2005年退職。
『吉野作造通信』を発行する会事務局長として、これまで10号を出す。「吉野先生を記念する会」会員。「吉野作造を学ぶ会」会員。
仙台市太白区八木山松波町7-24(〒982-0836) 電話&FAX 022-229-0534



 
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