法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

Mail info@jicl.jp
 
今週の一言
憲法情報Now
 憲法をめぐる動向
 イベント情報
 憲法関連裁判情報
 シネマ・DE・憲法
 憲法関連書籍・論文
 ■今日は何の日?
憲法Voice
研究所・客員研究員紹介
中高生のための憲法教室

憲法文献データベース
日本国憲法全文
リンク集
 
事務局よりお知らせ
賛助会員案内
メールマガジン
ご意見フォーム
サイトマップ

今週の一言

 

自民党の新憲法草案の内容と問題点

2006年1月23日


森英樹さん(名古屋大学副総長・教授)

<これは森英樹さんが昨年12月に福祉関係者の集会で行った講演からの抜粋を文章化したものです。見出しは法学館憲法研究所事務局がつけました。>

昨年11月、自民党が新憲法草案を公表しました。そのポイントとなるところをお話したいと思います。

日本国憲法の非戦の誓いを否定した自民党改憲案

自民党の新憲法草案は現在の憲法のほとんどの条文にわたって書き換える内容になっています。書き換えたといいましても、圧倒的な部分は送り仮名を現代風に改めるような技術的なものですが、ポイントはやはり9条でした。意外だったとしてメディアが騒ぎましたのは前文です。この前文のところが全文書き換えられました(笑い)。
前文を見直すために自民党「新憲法起草委員会」が設置した小委員会の委員長は中曽根康弘氏でした。中曽根さんといえば、昔から、天皇を愛し、日本の伝統を愛し、悠久の日本の…といった、三島由紀夫的な世界を愛し、そのようなすぐれた伝統や文化の薫る日本を讃え上げる、そういう前文にしなければいけないとずっと思ってきた人でした。中曽根さんが自ら筆をとったといわれている当初の前文案は「日本国民は、アジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島国に、天皇を国民統合の象徴にいただき、和を尊び、争いを好まず…」という、美文調で情緒的な文章でした。そのようなものが最終案でも出てくると私どもはある程度覚悟しておりました。ところが、最終案の前文はこういったエモーショナルな言い回しをそぎ落とし、まったく行政文書のようなものにすりかわっていました。
それは「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」から始まります。自民党は、現憲法はアメリカから押し付けられた、だから自分たちの手で憲法をつくりたいという思いで結成された政党ですので、その自民党の宿願=DNAを冒頭から書き込んでいます。そして、その次に復古的な中曽根流の文章を切って捨て、ある種の苦渋の選択をし、「象徴天皇制は、これを維持する」と、一言ですませました。そのうえで、普通に国民主権だ、民主主義だと、文言だけを謳います。
問題の愛国心の部分は、「日本国民は、帰属する国や社会を、愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務を共有し…」となっています。愛国心という文言こそ使いませんでしたし、国も社会も、となって「愛社心」までつぎ足しましたが、得体の知れない「国」を「愛情」で支える、というソフトな言い回しで、従来からの自民党の考え方はけっして捨てることなく、埋め込んだのです。
平和主義に関わる部分は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い…」という現在の憲法第9条に書いてあることをなぞった上で「他国とともにその実現のため協力し合う」としました。いまの憲法は、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願う」がゆえに戦争をしないことを誓い、戦争に役立つ軍備である戦力を持たないと決め、交戦権を否認したのです。ところが自民党草案は、現憲法が謳い込んだ、あの悲惨な戦争を猛省して国民がこの憲法を選び取ったのだという反戦・非戦の誓いと、これからは「平和のうちに生きる権利」を全世界の人びととともに保持するのだと高らかに謳いあげた部分、日本国憲法の顔であり魂といわれている部分は全部捨てました。そして、じゃあどういう協力をし合うのかというと、「国際社会において価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」としたのです。自民党は「平和主義を維持している」と言い張りますが、これでは憲法を根底から変えたに等しく、だからこそ「改正草案」ではなく「新憲法草案」としたのです。これはもはや、憲法「改正」手続に乗せる案ではありません。

武力で問題が解決されるのか

「国際社会において価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」――実はこれは大変怖いことを言っているのです。
いま、ブッシュ米大統領がイラクに突入していって、新しいイラクをつくったと豪語しています。その理由は、イラクには圧政がある、人権侵害があるということでした。それを潰すことは正義のために必要なのだということがイラク戦争を正当化した唯一の理屈です。彼とその政権は、私たちは正しい戦争をやったのだということを、いまでも自慢しています。「圧制や人権侵害を根絶させる」ことは大事なことです。しかし、その地に現に生きている人々を殺しながら、圧政や人権侵害をしている体制を、外から大量破壊兵器でぶっ壊すということを、「国際社会の正義」は認めたことはありません。国連は、そういうことは絶対やってはいけないということを強く戒めてきたのですが、それでは生ぬるいというので、ブッシュ米大統領がアフガニスタンに続いてイラクを潰したのです。
イラクのフセイン体制を倒すということを一般市民の人びとは、たしかに最初は歓迎をしていましたが、その強圧的なやり方とその後の長い占領継続に対して、イラクの市民たちは深い恨みと反感を抱き続けています。いわゆる自爆テロがあちこちで問題になっていますが、自爆テロというのは、そのようにして圧倒的な軍事力で外国人がズカズカと入り込んで、我がもの顔で自分の国土を支配し、方向を決めていくことに対する怒りの現れでもあると思うのです。民族としての歴史も文化もあり、米英などとはそれこそ食べ物も違うし着物も違う、そういう「多様性」にみちた民族的な誇りを持った人びとには、このような無神経で無造作な支配に対するいたたまれない怒りがあります。しかし、それを表すにはあまりにも力がなさすぎるというので、選びとった異議申し立ての行為が、自爆テロであるという側面もないわけではありません。
イラクの次はどこか、次は北朝鮮ではないかという話がいま密やかに言われています。
私たち日本人は北朝鮮からテポドンが…、という話についつい耳を傾けてしまいがちです。北朝鮮が変な国、異常な国、人権抑圧の国、国民をないがしろにする国であることは、かなり増幅された報道ではあっても、私たちに伝わってきていることの多くはおそらく真実でしょう。おかしい国だということはあると思います。しかし、ではその北朝鮮を外から爆弾でぶっ潰して、金正日体制を崩壊させれば、北朝鮮の人々が幸せになるという単純な話になるのでしょうか。そのようなことにはおそらくならないでありましょう。
かつて日本は朝鮮に対して理不尽きわまりない侵略をしてきました。そのことの清算も補償・賠償もきちんとしないうちに、日本が自民党の新憲法草案のように憲法を「改正」してアメリカの武力攻撃などに協力した場合、北朝鮮の人々が、ひいてはアジアの人々がどういう目を日本と日本人に対して向けるのか、私たちはこのことを想像しなければいけないと思います。

福祉と人権の切り捨てへ

もう一点、自民党の新憲法草案の大きな特徴として、「公共の福祉」という言葉が大幅に後退しているということがあります。
日本国憲法の人権規定の全体に関わる総則的規定の12条には、基本的人権は国民の不断の努力でこれを大事にしなければいけないが、それは「公共の福祉」のために使わなければならないのであって、人権とは自分勝手、好き勝手とは違うのですよ、といった趣旨のことを定めています。また13条でも、このような公共の福祉にそった基本的人権を国は最大限尊重せよ、と命じています。
「公共の福祉」という言葉は、歴代自民党政府、あるいは裁判所によって非常に悪用され、たとえばデモの規制の根拠などにしばしば使われますが、もともとは人権保障を支える積極的な意味合いをもつ概念。近代国家が生誕した当初は、儲けたいと思えば儲けなさい、好き勝手に「自由」を謳歌する社会でした。そのために力のない人は負けていったり死んでいきました。いま起こりつつある「新自由主義」とは、かつての「自由主義」社会を繰り返しているのですが、かつてのそれに反省をした歴史は、力のない人びとも人間として生を全うできるように「公共」が手をさしのべるべきだという新しい構想を獲得しました。力のない人々にも人間らしい暮らしを保障していくことは「公共の福祉」に適合するという考え方をとるようになったのです。たとえば、放っておけばこき使われるだけの労働者に、特別の権利を認め、力の強い使用者に対抗して組合を作り人間らしい暮らしのための要求を団結してぶつけることをしても、それはまっとうな権利として保障しなければいけない、とか、高額所得者に対してはより高い比率で高額の納税を義務付けることによって、そのお金を資力のない人にまわす、これらが「公共の福祉」の考え方なのだということが20世紀に入ってから各国で採用された原則となり、憲法にも書き込まれるようになりました。戦前の日本の憲法にはこの原則がなかったのですが、戦後のいまの憲法には書き込まれたのです。これが「公共の福祉」のために基本的人権はあるのだという考え方の骨格なのです。
ところが、今度の自民党の新憲法草案を見ますと、その「公共の福祉」を大幅に削って、第12条は「…自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と書き換えました。ポイントは、「公共の福祉」という言葉が消えて、代わりに出てきたのが、「公益」と「公の秩序」という言葉です。
「公共の福祉」を、「公益」と「公の秩序」という言葉に代えるということは、言葉のもてあそびのように見えなくもありません。しかし、これは実は大変なことを意味しています。「公益」とは「私益」に対立し、私益をつぶしてでも実現したいとする「公」の「利益」です。おそらく、国民がもっている私的な財産を戦時という「公」的利益のために犠牲にすることも想定しているでしょう。つまり、人々が「共」に享受するがゆえに「公」となる幸福のための「公共の福祉」はもういらないというわけです。最近、日本の現状を福が死ぬ「福死国家」だと見立てて出版された面白いタイトルの本が出版されましたが、その通りでして、福祉を福死に追いやれば、生活苦の人々が増え、失業者やニートが増え、生活不安が重なって必然的に世の中がすさんでいく。そうすると「秩序」が乱れてきて、あちこちでかっぱらいやひったくりが増える。そこで国が出てきて「秩序」を強権的に守る。犯罪の防止のためには、日ごろから国民を監視しましょう、盗聴もしましょう、といったような社会に転換させようというのが、現に進んでいます。「小さい政府」とよく言いますが、実際は「福祉には小さいが、秩序には強い」政府です。今回の自民党の新憲法草案が描く「国と社会」の、もう一つのポイントがここにあるのではないでしょうか。これを愛せ、と言われても願い下げです。

◆森英樹(もりひでき)さんのプロフィール

1942年三重県生まれ。名古屋大学理事・副総長・教授。法学館憲法研究所客員研究員。
主な著書に、『憲法の平和主義と「国際貢献」』(新日本出版社、1992年)、『現代憲法講義』(浦部法穂らと共著、法律文化社、1993年)、『新版・主権者はきみだ』(岩波ジュニア新書、1997年)、『市民的公共圏形成の可能性』(編著、日本評論社、2003年)、『国際協力と平和を考える50話』(岩波ジュニア新書、2004年)、『国家と自由』(樋口陽一らと共編著、日本評論社、2004年)など。


 
[今週の一言][憲法情報Now][中高生のための憲法教室][憲法文献データベース][事務局からのお知らせ]
[トップページ]