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日本国憲法第9条を世界に広げる

2005年7月25日
日高六郎さん(社会学者、パリ在住)
「映画 日本国憲法」が劇場公開されています。現在劇場公開記念企画・連続トークショー「憲法の話をしよう。私がおもう憲法9条のこと」(主催:シグロ、後援:マガジン9条)が行われています。そのトークショーの第2回目(7月3日)に登場された日高六郎さんのお話を紹介します。

「映画日本国憲法」は日本の憲法問題を主題にしながら、実は日本人は私しか出ていません。他はアメリカ人やシリア人、レバノンや韓国の人などみな外国人です。いままさに日本国憲法の問題とはそのような国際問題になってきているんです。

日本国憲法の制定が日本を開放した

私は88歳ですので、これまで多くの皆さんが目撃しなかった場面をいろいろと見てきました。
私の父は東京外国語学校の支那語科を出て北京の公使館に行って、小村寿太郎公使のもとで3、4年働きました。しかし、辞めました。日本の外交と外務省に失望したからです。海外に出ている外務省の役人の仕事は全部外交ではなく「内交」なんです。外国の人たちの気持ち、幸せ、そのようなことをほとんど考えないで、日本政府のほうだけを見ている。「内交」を考えないと立身出世はできない。それで嫌になって辞めたんです。それからチンタオというところに移って、1917年、そこで私は生まれました。
チンタオでの小学校・中学校時代の生活は私の心に染みていて、私はアジアのことを考えないではおれない、日本の民衆の幸せと一緒にアジアの人々の幸せを考えずにはおれないのです。私は自然にそのような考え方を持つようになったんですが、それは父の影響も大きかった。父は私たちに決して支那人といってはいけない、中国人といわなければならないと教えました。日本と中国(当時は清国)とが仲良くすることが一番大切なことだと言われました。父は本当の日中(日清)の親善、これなしに日本は生きていけないんだということを繰り返し繰り返しいつも話していましたし、現地の人たちといつも親しく交際していました。
満州事変がはじまった1931年、私は14歳、中学校の3年生でした。満州事変が始まった日、生徒約500人ばかりが校庭に集められました。“今朝9月18日朝方、満州で事変が起こった。日本軍と張学良軍との衝突が始まった。たいへんなことになった。しかし日本が支那に負けるようなことは絶対にない。安心していなさい”というような話をずっと聞きました。しかし、私はその1、2年前から、どうも戦争と言うものはあまりよくないことだと感じはじめていたんです。学校ではあまり習わないようなことを感じはじめていたんです。当時私はトルストイの「イワンの馬鹿」やクロポトキンの「ある革命家の思い出」などを読んでいて、どうも戦争というのはあまりよろしくないことではないかと考えていたんです。私の家族は父母と4人兄弟の全員が戦争に対し、あるいは満州事変に対して批判的でした。しかし、その会話は家の中だけでやります。外ではそういう会話をすることはできませんでした。そのうちに私の弟が1931年1月から家庭新聞を作ることを提案しました。家族みんなが家庭新聞に俳句や短歌、詩、童話、童謡、エッセーなどを投稿したんです。その中で父ははっきりと戦争否定の短歌を詠みました。
やがて15年戦争は終わりました。そして、日本国憲法ができたわけですが、その時私は日本は軍国主義時代からやっと国民とアジアと世界の人々に開いてきたと感じました。

日本の外交はアジアの人々のことを忘れてはならない

たしかに日本国憲法は当時の占領軍が書いたものです。しかし、連合国総司令官マッカーサーは、憲法はその国の人間が書くべき仕事であり、別の国の人間が書いた憲法では国民に浸透しないということをはっきりと言い、そして1945年10月4日、幣原首相に憲法を早くつくるよう勧告したんです。それで憲法調査委員会ができ、松本烝治が委員長になり、翌年2月に憲法案が提出されることになったんです。その直前である1946年2月1日に毎日新聞がその案をスクープしました。それを私たち家族がみて、本当に驚いた。何にも明治憲法と変わっていないんです。みんなこれではとてもダメだろうと、すぐわかりました。そして、GHQの民政局のほうで憲法案をつくらざるを得ないということになったんです。
一つエピソードを言います。当時、日本の政党である社会党、共産党、自由党、進歩党の憲法案や高野岩三郎さんの案、それから鈴木安蔵さんの憲法研究会の案もすでに出ているんですが、その案をGHQは全部集めて丹念に調査しているんですが、憲法調査委員会はそれらの民間の憲法案をぜんぜん読んでいないんです。驚くべきことです。高野岩三郎さんの書いた憲法案は現在の日本国憲法に取り入れられていますが、それはGHQはそれを勉強したからなんです。一方、憲法調査委員会は民間の案をぜんぜん勉強していない。民を軽蔑しきっています。もう勝負ありでした。GHQ民政局がつくった憲法案は主権在民・戦争放棄の憲法という見出しで報道されました。
というのは、それまでの日本はまったく主権在民ではなかったんです。主権在民でなかったから日本は1945年8月15日までポツダム宣言を受諾できなかったんです。7月26日にポツダム宣言を受けました。だいたい最後通牒がきたときはシャッポを脱ぐときです。ところが、日本の指導者の間で、戦争を継続するのか、ポツダム宣言を受け入れるのか、約3週間決まらない。そのときに誰がその議論に参加したのか、国会議員はぜんぜん参加していない、枢密院も参加していない、大学の先生方も参加していない、ましてや報道陣の話を聞くということもまったくない、内閣の中の最高指導会議だけで、その周辺のお役人だけで相談し、それで日本の方針が決まらなかったんです。まかり間違えば本当に一億玉砕になるところでした。一億玉砕の寸前だったんです。結局一億玉砕をしても国体を護持しようということになり、そして最後の土壇場で天皇の勅語というかたちでポツダム宣言の受諾を決めたんですが、主権在民ではまったくなかったんです。
それから戦後東久邇内閣ができ、幣原内閣ができて、その幣原内閣が憲法案をつくったところが、その案が明治憲法をまったく引き写したものだった。1946年2月1日の発表の案では、例えば明治憲法では「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、そこでは、「天皇は至尊にして侵すべからず」という内容でした。ほとんど明治憲法を引き写したものだったんです。憲法は日本人が書くべきものだからと言って、もしマッカーサーがそういう憲法でもよろしいということになれば、マッカーサーは連合国総司令官の首を切られたでしょう。マッカーサーが受け付けられるはずはありませんでした。それが日本人を幸せにする憲法になるはずはない、そういう実に情けない状態でした。
私は戦争が終わる直前に海軍の技術研究所の嘱託をしていました。私は研究所から時局についてのレポートの提出を求められ、「国策転換についての方針」と言う文章を書きました。400字×60枚くらい書いたんです。そのときはもう戦争は負けだとはっきり見通しはついていて、戦後の日本がどういう方針をとることができるかという意見をいくつか書いた。その中の一つに、日本の戦後の外交はアジアを忘れてはならない、欧米に追随するのではなくてアジアの人たちと本当の友好関係をつくっていく、そのことが大切である、もちろん朝鮮の独立・自治、台湾の返還、香港の返還、などを即刻やるべきだという意見書を出しました。後に家永三郎さんがそれを全部見たいということでお見せしたところ、自分で言うのは恥ずかしいのですが、家永さんは、これはある種の民間憲法だと言ってくださいました。そのときはちょっと死に物狂いみたいな気持ちで、まかり間違えば、それは戦争をやめろという提案ですから、刑事問題になる可能性があったんです。しかし、とにかくそれを出して、それから数日後に敗戦ということになったんです。

日本の戦争責任をはっきりと認め謝罪する

小泉首相が靖国神社に参拝していますが、先日世論調査で52%の国民がそれを考え直したほうがよいのではないか、と考えているという数字が出ていました。私はほっとしました。明るい気持ちがしました。やはり“人民主権”の国民は考えているんだという感じがしました。
しかし、憲法第9条の改定の問題は靖国神社への参拝の問題以上にアジアの諸国は敏感です。憲法第9条を改定するとなれば、靖国問題以上に重大な国際問題になります。これは避けられません。日本人が日本の憲法を改定するんだからどこの国の干渉もお断りだよ、というわけにはいきません。本当に重大な国際問題にならざるを得ません。
自民党は戦後60年間ほとんど一つの政党で政権を担当してきました。私はことさら自民党の悪口だけを言いたいとは思いませんが、そこには困ったことがあります。その中で一番困ったこと、自民党が失敗したことはアジアの民衆の信頼を回復することがついにできないできてしまったということです。これが最大の問題です。アジア外交の失敗、世界外交の失敗です。
憲法第9条が発表された時、私は30歳くらいでしたが、家族で話し合いました。2つ感想がありました。一つは非常に、ある意味動物的ですが、これで本当に戦争から開放されるのかなあ、15年戦争で若者がどんどん死んでいく、あるいは市民がどんどん死んでいく、そういう経験をしないですむのかなあという安堵感ですね。そういう思いがパッときました。もう一つは、憲法第9条は15年戦争に対する日本の一つの謝罪の表明ではないか、もうちょっときつく言うと、ある種の懲罰ではないかと思いました。日本の軍国主義は長いこと中国大陸を席巻していました。そのあとアメリカともたたかいました。その過程は決してアジアの平和のためのたたかいというより、むしろ日本の国益のための戦争であったということはご存知の通りだと思います。
しかし、そのことを政府がはっきりと言い切れない、これが日本に外交がないということです。日本人がどう考えるか、政府がこれは間違いでしたとアジアの人々に対してはっきりと謝れば自分たちの党の票は減るんではないかと考え、極端にいえば政府は日本の国民の方だけを見ていて、アジアの人々に謝りきれない。竹下さんが首相になって、戦後もう40年たってさえも、15年戦争がどういう戦争であったかは歴史が将来決めるでしょうと仰った。世界のほとんどすべての国の人々がかつての戦争は侵略戦争であったということをはっきりと認めている。ヨーロッパのなかではみんなそう思っている。つまりナチス級の、あるいはムッソリーニ級のファシズム、全体主義国家として日本を評価して、15年戦争はその全体主義国家の侵略戦争だったと評価されているんです。それを日本政府は言い逃れをし続けてきた。これで隣りの国の人々が信頼するはずありません。安心するはずありません。そういう状況の中で、とにもかくにも日本に憲法第9条のようなものがあれば、かつてのようなことはするまいとアジアの人々から考えられてきたんです。ここのところが第9条の大きな役割だったんです。

アジア、世界の人々との本当の信頼関係をつくる

日本政府がもし憲法第9条を土台にして、それこそ日本の平和だけでなく、アジアの平和、世界の平和のために軍事的、武力的なことではなしに、いろいろな提案をどしどし出していったならば、アジアの人々も次第に、日本は本当に変わってきた、日本は平和を考える国になってきた、広島・長崎の被爆を受けた日本人であるならば当然ということになろうけども、日本も憲法第9条的になってきたと評価してくれたと思います。
日本政府はそれをとうとうできないできたわけです。村山富市首相が1995年に中国の植民地統治と中国侵略についての謝罪の首相談話を発表しました。しかし、本当に謝罪する時には相手の国の政府が所在している土地の玄関口に足を運ばなければだめです。かつて西ドイツ首相のブラントはそれをやったわけです。ブラントはポーランドのワルシャワに行ってユダヤ人が殺された地に行って大地に膝をついて謝った。あの瞬間に西ドイツと東のほうの国々との友好関係が生まれたんです。
いま私はフランスに住んでいていろいろなことを感じるのですが、一つ感動したことをお話します。1995年に元大統領のミッテランが亡くなり、彼の国葬がありました。世界中の大統領級、首相級の人たちが集まりました。その時にドイツの元首相・コールが来ていました。ミッテランとコールは本当に一緒になってユーロをつくったんです。その盟友が死んだ。その国葬にコールが出ていて、コールは本当に泣いていました。男泣きしていました。政治家は普通そういう場面では泣かないんですが、ところがコールは涙が止まらなかったんです。ミッテランとコールがどんなに親しかったか、どんなに一生懸命にヨーロッパの平和を恒久化しようとして努力したことか、ということなんです。日本の首相が亡くなって、中国の首相がきて男泣きに泣いてくれるでしょうか。日本も諸外国とそういう本当の信頼関係をつくらなければならないんです。

アジアの人々と民衆レベルで交流を

私たちは憲法第9条の改定をさせないだけではなく、民衆のレベルで本当にアジアと交流を大々的な交流を始めようではないですか。たとえば大分県は広東省と交流する、大阪大学は北京大学と交流する、缶詰会社の人は中国の缶詰会社の人と交流する。芸術団体も中国の芸術団体と交流する。民衆が中国などに出向いて、かっての戦争に対する日本の責任をはっきりと認めながら、アジアの人々と交流する。それはできるはずです。自衛隊に投じているお金は全部そちらにまわしてくれたらありがたいです。でもまわしてくれないでしょう。それだったらカンパしてでもみんなで行きたいと思います。そしてアジアとの関係を本当につくり直していく、そのことはアメリカにとっても決して悪いことではないんです。それは究極的にはアメリカにとっても結構なことであるはずなんです。
私たちはそのようなこともできる。それ以外にもいろいろなことがあるでしょう。もし私たちが本当に求められる政府をつくったならば、自衛隊を毎年2%づつ減らしていくこともできます。そうしていって相手国が日本を占領したら日本人はみんな死んじゃうじゃないか、だからやっぱり軍隊をつくろうという人もいるでしょう。しかし、だんだん軍縮が進めば、他の国々も軍縮を進める可能性があります。かつて、1965年にイギリスの労働党がたてた作戦で一方的核軍縮というのがあります。イギリスは核を全廃する、ソ連が核を持ちたいということならばどうぞ核をおつくりください、といって核軍縮の提案をしたんです。世界のいろいろな人たちがそのようなことまで考え、本当にいろいろなことをやっているんです。かつて、フランスでは国会の力で、民衆の力でベトナム戦争をやめました。続いてオーストラリアはアメリカと安全保障条約を結んでいるにも関わらず、労働党の党首が総選挙の時にベトナムからの撤兵を公約し、実現したんです。日本のイラクからの撤兵も国会が議決すれば即刻できるんです。それが“人民主権”ということなんです。
私は日本国憲法第9条というものを世界にどうやって発信していくかを考え、それの一つの段階としていまの憲法「改正」問題に対してがんばっていきたいと思います。

<見出しは編集部>

◆日高六郎(ひだかろくろう)さんのプロフィール

1917年生まれ。元東京大学教授。京都精華大学教員を経て渡仏。『戦後思想を考える』『私の平和論―戦前から戦後へ』(ともに岩波新書)『戦争のなかで考えたこと』(筑摩書房)など著作・訳書多数。


 
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